【ギルド/BUMP OF CHICKEN】歌詞の意味を考察、解釈する。

BUMP(バンプ)の新しい楽曲も魅力的ですが、私は特に彼らがまだ若く、エッジの効いた初期の作品に惹かれます。

その期間の作品の中でも、【ギルド】は特別に際立っています。

この曲について、今回は紹介したいと思います。

自己束縛の涙:進むべき道の模索

人間という仕事を与えられてどれくらいだ
相応しいだけの給料 貰った気は少しもしない

イントロが始まるや否や、この曲の最初の部分で心を掴まれました。

思春期の真っ只中であった私にとって、この曲の人生と存在に対する問いかけるような歌詞は、深く心に響きました。

それまで私が考えていた「歌は恋愛に関するもの」という固定観念を覆す、この曲の衝撃は計り知れませんでした。

このわずかなフレーズから伝わってくる、「される」「しなければならない」という感覚。

この世に生を受け、適切に生きることが求められている。

自分の意志で選んだわけではないのに、という生の義務感がこの曲からは感じられます。

ある意味で、これは非常に受け身で、依存的な視点とも言えるでしょう。

なぜこのような感覚に至ったのか、という疑問が残ります。

いつの間にかの思い違い 「仕事ではない」解っていた
それもどうやら手遅れ 仕事でしかなくなっていた

子供の頃は、みんなが自由であることが普通です。

自分の存在が許され、愛されることで、心のままに行動できるのです。

疑問を持つことなく、自らの意志で生きることができます。

しかし、その自由がいつの間にか影を潜め始める時が来ます。

他人と自分を比較し、自分の位置を定めたり、他人に好かれるような行動をするようになるのです。

楽しくないにも関わらず、ふざけたり、本心ではないのに友人に影響されて悪口を言ってしまい、夜、ベッドでその行動を後悔することもあります。

悲しいんじゃなくて疲れただけ
休みをください 誰に言うつもりだろう

涙が理由もなくこぼれるのはなぜだろう。

自分の意志で選び、自ら望んで行動してきたはずなのに、まるで自分自身を縛り付けているよう。

疲れ果てて、もう辞めたくなった。

だけど、どのようにしてこの状況から脱出すれば良いのか見当がつかない。

自由の喪失と日常の矛盾:内省への誘い

奪われたのは何だ 奪い取ったのは何だ
繰り返して少しずつ忘れたんだろうか
汚れちゃったのはどっちだ 世界か自分の方か
いずれにせよ その瞳は開けるべきなんだよ
それがすべて気が狂う程 まともな日常

この部分で、視点は広がり、自己反省へと進みます。

「あなた(自分)が失ったと感じるものは何ですか?それとも、気づかぬうちに他人から何かを奪っているのでは?」

私は、これを「自由」と見ています。

つまり、「本来持つべき選択肢」「純粋無垢な状態」を指します。

日常生活の中で、人は徐々にすり減っていきます。

最初は感じる違和感も、時間が経つにつれて普通のこととして受け入れてしまい、気に留めなくなります。

最初に放棄したと思われる自由を、いつの間にか奪われたと感じるようになったのはいつからでしょうか。

純粋に生きることができなくなった自分を、「汚れた」と思ったことはありませんか?

そして、その原因を社会のせいにしたことは?

「この自己中心的な社会が悪い。それが生きづらさの原因だ」と思ったことは?

このような内省的な問いに対しても、私たちは自分自身とこの世界をきちんと見つめ直すべきだ、と歌詞は述べています。

個人的に、曲中で「気が狂うほどまともな日常」という表現が特に気に入っています。

「気が狂う」と「まとも」、この二つの対照的な言葉の組み合わせが皮肉を込めていますが、それは「日常」が持つ非人間的な異様さの深い真実を表しているからです。

目を開けると目に映るのは、「繰り返される、正常を装うねじれた日常」。

私たちはそんな世界でどう生きていけばいいのでしょうか。

挑戦と自己対話:世界に居場所を見つける旅

腹を空かせた抜け殻 動かないで 餌を待って
誰か構ってくれないか 喋らないで 思っているだけ

これはかなり厳しい始まりですね…。

当時の私が持っていた厭世的な態度が、一刀両断されたような気分です。

人間という仕事をクビになって どれくらいだ
とりあえず汗流して 努力をしたつもりでいただけ

涙がにじむほど心が痛んでいますが、話を続けましょう。

「こんな厳しい世界での生活が、本当に自分に適しているのだろうか?」と思うことがあります。

自分を人生の敗者、つまり「人間としての職を失った」と決めつけ、全てを放棄しようとしていますが、ちょっと待ってください。

実際に、この世界と真摯に向き合ってきたと言えるでしょうか?

自分以外の人や物事に本当に関心を持ち、それらと深く対話してきた結果の結論でしょうか?

思い出したんだ 色んな事を 向き合えるかな 沢山の眩しさと

ここで、もやもやとした闘いが一変し、前へ進むための微かな希望を見つけ出しました。

変わらない世界、踏み出す勇気:曲からの深いメッセージ

美しくなんかなくて 優しくも出来なくて それでも呼吸が続く事は 許されるだろうか

この部分を聴くたびに、涙が止まりません。

これは自分の存在に対する疑問です。

実際、誰もが自分や人生を諦めたいとは思っていないはずです。

その場しのぎで笑って 鏡の前で泣いて 当たり前だろう 隠してるから 気付かれないんだよ

初めは厳しい表現に思えるかもしれませんが、「辛い気持ちをしっかりと伝えれば、助けてくれる人が絶対にいます。救いを探すことを止めないでください。あなたの苦しみを理解し、支援したいと願っている人がいるのです。」という藤くんの温かな心遣いが感じられると思います。

夜と朝をなぞるだけのまともな日常

喜びや感動が全くなく、日々が単調に過ぎていくだけの生活で、本当にそれで満足しているのでしょうか?

愛されたくて吠えて 愛されることに怯えて 逃げ込んだ檻 その隙間から引きずり出してやる

このような言葉をかけられたら、まさに誰しもが永遠に従うでしょう…というわけではなく、人々が内に秘める矛盾した苦悩を全て受け入れてくれるこの言葉の力には圧倒されます。

本当に強烈です。

まるで「ラフメイカー」(別の曲)のようです。

汚れたって受け止めろ 世界は自分のモンだ 構わないから その姿で生きるべきなんだよ

これは、「自分」を肯定するための強いメッセージです。

それも全て気が狂う程 まともな日常

あなたがどんな行動をとっても、この世界がすぐに変わるわけではなく、あなたの日常が劇的に変化することもないかもしれません。

しかし、それでも現状を受け入れて新たな一歩を踏み出してみることを勧めるメッセージが、この曲からは伝わってくると私は解釈しました。

どう思われましたか?

お気づきの通り、この曲は主観と客観の間を行き来しています。

実際、曲には一人称が存在しません。

私には、この曲がある特定の個人の悩みを訴えるのではなく、苦しんでいる誰かに寄り添い、優しく語りかけているように感じられます。