米津玄師の「LENS FLARE」は、ただの恋愛ソングではなく、他者の視線に照らされて揺らぐ自己像を描いた一曲です。タイトルが示す“レンズフレア(光のにじみ)”は、現実そのものではなく、光の当たり方で歪んで見える像のメタファー。本記事では、歌詞に登場する「スーパースター」という仮面、「あなた」と「わたし」の分裂した語り、そして『PERFECT BLUE』的な“見られることの恐怖”までを手がかりに、「LENS FLARE」の意味を丁寧に読み解きます。なぜこの曲は、愛されたい気持ちと消えてしまいたい衝動を同時に鳴らすのか――その核心に迫ります。
「LENS FLARE」とは何か?タイトルが示す“光のにじみ”と自己像のズレ
“レンズフレア”は、強い光がレンズに入り込むことで生まれる、輪やにじみ、白っぽいベールのような現象です。つまり「被写体そのもの」ではなく、光の当たり方によって生じる副次的な像だと言えます。
このタイトルを歌詞に重ねると、本曲の主題は「本当の自分」そのものより、他者の視線や期待という強い光に照らされて歪んだ自己像にある、と読めます。なお「LENS FLARE」はアルバム『LOST CORNER』の11曲目に置かれており、作品全体の中でも“自己像の揺れ”を担う重要な位置です。
着飾る「スーパースター」――ありのままでは生きづらい理由
この曲の語り手は、素のままでは立っていられず、役割やキャラクターを“着る”ことで世界に適応しようとします。ここでの「スーパースター」は憧れの称号ではなく、生存のための仮面です。
米津玄師本人もインタビューで、当時の楽曲に「わかってもらえない苛立ち」や煮え切らなさが強く出たと語っており、この感情が「着飾るほど苦しくなる」構図を裏打ちしています。
「あなたは誰」「わたしを見て」――自己分裂する語りの正体
この曲の呼びかけは、恋人同士の会話としても読めますが、同時に自分が自分を取り調べる独白にも聞こえます。「見る側」と「見られる側」が一人の中で分裂し、互いを確認し続ける状態です。
さらに映像編集を思わせる語彙感覚が、人格の“切り替え”を強調します。もともとの仮タイトルが『PERFECT BLUE』だった事実を重ねると、楽曲全体が映画的な自己分裂の演出になっている、と解釈できます。
薄氷の上で踊る心――承認されるほど孤独になるパラドックス
華やかな照明の下にいるのに、足元は薄氷――この対比は、評価されるほど壊れやすくなる心理をよく表しています。拍手や承認は安全網ではなく、むしろ「その像を保て」という圧力にもなるからです。
だからこそ語り手は、称賛に救われるのではなく、称賛の中でさらに孤独になる。ここにあるのは成功譚ではなく、“演じ続けること”の摩耗です。
「愛されたい」と「消えてしまいたい」が同時に鳴る瞬間
この曲が鋭いのは、承認欲求を単純に否定しない点です。見てほしい、わかってほしい、でも見られるほど苦しい――その矛盾を矛盾のまま抱え込んでいます。
結果として、愛されたい気持ちと、どこかへ消えたい衝動が同時に立ち上がる。ここで描かれるのは“弱さ”ではなく、現代的な自己意識のリアルです。
この曲は恋愛か自己対話か――“向き合わず同じ方を見る二人”という視点
恋愛曲として聴ける要素はありますが、作者はこの曲を「男女間の恋愛」に限定して受け取ってほしくない、と明言しています。むしろ、二人が向かい合うのでなく、同じ方角を見ながら退屈や苛立ちを共有する関係として構想されたそうです。
この前提に立つと、歌詞の「二人」は恋愛当事者というより、同じ時代の息苦しさを背負う“共犯者”に近い。あるいは、ひとりの内側にいる二つの声だとも読めます。
『PERFECT BLUE』の着想から読む「見られること」の恐怖
『PERFECT BLUE』は、アイドルから俳優へ転身した主人公が、他者のまなざしや理想像に侵食され、現実感覚を揺らしていく物語です。
百科事典でも同作は「メディアに傷つけられた人格」を暴力的に描く作品として言及されており、まさに“見られること”の恐怖が核にあります。
米津玄師がこの映画から着想を得ていたと語っている以上、「LENS FLARE」を“自己像が視線で歪む歌”として読むのは自然です。
結論:「LENS FLARE」は虚像を抱えたまま本当の自分を探す歌
「LENS FLARE」は、理想の自己像を壊して“素顔に戻る”歌ではありません。むしろ、歪みやノイズを抱えたまま、それでも歌い続けるしかない人間の歌です。
強い光を消すことはできない。だからこそ、そのフレア込みで自分を引き受ける――この曲の核心は、そんな不器用で誠実な自己受容にある、と私は考えます。


