「打上花火」の背景と制作秘話
「打上花火」は、2017年公開のアニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の主題歌として誕生しました。
この映画は、岩井俊二監督による1993年の同名ドラマをリメイクした作品であり、若者の刹那的な恋や葛藤が描かれています。
この物語のテーマを受け、米津玄師が楽曲を制作するにあたり、「一瞬の輝きとその後の余韻」を音楽で表現することが意識されました。
楽曲の制作は、映画制作陣から「DAOKO(ダオコ)さんに歌わせる曲を」というオファーがきっかけでスタートしました。
当初は米津玄師が裏方として楽曲提供を行う予定でしたが、途中で米津自身もデュエットで参加する形になりました。
この共同作業が生み出した結果、米津玄師の繊細な歌詞とDAOKOの透明感ある歌声が絶妙にマッチし、楽曲に深みが加わりました。
また、「打上花火」というタイトルには、花火が持つ一瞬の美しさと儚さがそのまま投影されています。
恋や青春の「終わってしまうからこそ輝く」というテーマが、花火をモチーフに巧みに表現されています。
この点が、映画のストーリーと楽曲を強く結びつける重要な要素となっています。
本楽曲はDAOKOのアルバム『THANK YOU BLUE』に収録されており、その後、米津玄師がソロバージョンをアルバム『BOOTLEG』に収録することで、また違った解釈で聴くことができる作品となりました。
この2つのバージョンが存在することで、リスナーは多面的に楽曲を楽しむことができます。
「打上花火」は、映画主題歌としての枠を超え、夏を象徴する楽曲として定着しました。
その背景には、作品に込められた緻密なテーマと、アーティスト同士の化学反応があったと言えるでしょう。
視線の描写に込められた感情
「打上花火」の歌詞では、視線の動きが細やかに描写され、それが語り手の心情を映し出す重要な要素として機能しています。
この視線の変化は、過去の思い出をたどる映像的な描写であると同時に、語り手の感情の移ろいを象徴しています。
冒頭のAメロでは、語り手が「見渡した渚」や「砂の上に刻んだ言葉」といった具体的な風景に視線を向けます。
広がる景色から足元の砂浜へと視線が移ることで、過去の鮮やかな記憶が呼び起こされ、その中心には「君」の後ろ姿があります。
この視線の動きは、語り手が「君」と共有した瞬間の温かさや親密さを思い出していることを示しているようです。
一方で、Bメロでは「寄り返す波」や「日暮れだけが通り過ぎて行く」といった描写が登場します。
ここでは、視線が波打ち際や夕暮れの風景へと向かい、記憶の中にある静けさや儚さを感じさせます。
この描写から、語り手は過去の楽しい思い出だけでなく、消えていく時間や手に届かないものへの寂しさを抱いていることが伝わります。
そしてサビに入ると、視線は夜空に打ち上がる花火へと向けられます。
この花火は、一瞬の美しさと消えゆく儚さの象徴であり、語り手の感情のピークを表現しています。
「君」と共に過ごした夏の夜、その輝きがいつまでも続いてほしいという切なる願いが、視線の変化とともに描かれているのです。
視線を通じた描写は、語り手の感情の揺れを視覚的に表現し、聴き手にその情景をリアルに想像させる力を持っています。
「打上花火」は、風景と感情が織り交ざる歌詞表現によって、聴き手に深い余韻を残す楽曲となっています。
サビに込められた願いと刹那の象徴
「打上花火」のサビでは、楽曲全体を象徴する「花火」というモチーフが全面に押し出されます。
この部分は、一瞬の美しさとそれに続く消失を繰り返す花火を通じて、語り手の抱く願いや儚さが鮮烈に描かれています。
サビの冒頭に登場する「パッと光って咲いた花火を見ていた」という歌詞には、花火そのものの鮮やかさと、それを見つめる語り手の心情が重なっています。
ここで描かれる花火は単なる夏の象徴ではなく、語り手にとって「君」と共有した特別な瞬間を象徴する存在です。
夜空に打ち上げられた花火が瞬く間に消えていくように、「君」との時間もまた、限りあるものであることを暗示しています。
続く「きっとまだ終わらない夏が 曖昧な心を解かして繋いだ」というフレーズでは、花火がもたらす刹那の美しさが、語り手の内に秘めた感情を解き放つきっかけとなる様子が描かれています。
この「終わらない夏」という表現には、刹那の中に永遠を見出そうとする願いが込められているように感じられます。
語り手は、儚い瞬間が続いてほしいと切に願いながらも、それが不可能であることを心のどこかで理解しています。
さらに、「この夜が続いて欲しかった」という言葉には、過ぎ去ってしまう時間への強い未練とともに、過去への郷愁が漂います。
花火が夜空で消えていくように、語り手と「君」が共有した特別な時間もやがて終わりを迎えることが暗示されており、そこに込められた切なさが聴き手の胸に迫ります。
このサビ全体を通じて、「打上花火」が表現するのは、終わりがあるからこそ輝く刹那的な美しさです。
その美しさは、「君」と過ごした時間の貴重さや、失われたものへの後悔、そして未来への希望といった多面的な感情を想起させます。
このように、サビの中に込められたテーマは、楽曲全体の核心であり、聴くたびに新たな解釈をもたらしてくれる魅力を持っています。
語り手と「君」の関係性を読み解く
「打上花火」の歌詞には、「君」という存在が重要な鍵を握っています。
しかし、「君」と語り手の具体的な関係性については、あえて詳細に語られないことで、聴き手の想像力を掻き立てる構造になっています。
この曖昧さが、楽曲の持つ普遍的な魅力を際立たせています。
歌詞の中で語り手は、「君」と過ごした時間を追憶しています。
冒頭の「渚」や「砂の上に刻んだ言葉」といった描写は、二人が特別な時間を共有していたことを物語っています。
「君の後ろ姿」を思い出す語り手の視点からは、親しい間柄であったことがうかがえますが、それ以上の明確な説明はありません。
このあたりに、恋愛関係であったのか、それとも片想いであったのか、聴き手自身が想像を巡らせる余地が生まれています。
一方で、Bメロやサビに進むにつれて、「君」との距離感が切実な形で描かれています。
「寄り返す波が足元をよぎり何かを攫う」という歌詞では、語り手の中で「君」との思い出が波にさらわれるように遠ざかっていく様子が暗示されています。
この描写は、語り手が「君」との時間を懐かしみながらも、その終わりを受け入れざるを得ない状況を象徴しているようです。
さらに、「あと何度君と同じ花火を見られるかな」と語られる場面では、未来への不確かさが浮かび上がります。
「君」との再会や共有できる時間が限られていることを悟りながらも、それを受け入れることの難しさが語り手の心情として滲み出ています。
この言葉には、若者特有の純粋さと、儚い関係性に対する切なさが凝縮されています。
「君」の存在は、歌詞全体を通じて青春の甘酸っぱさや人との関係性の儚さを象徴しています。
明確な描写を避けることで、「打上花火」は特定の物語に縛られることなく、聴き手それぞれの記憶や感情と結びつきやすくなっています。
語り手と「君」の関係性は、聴き手自身の過去や心情を投影するキャンバスとなり、この楽曲が広く愛される理由のひとつになっているのです。
米津玄師ソロバージョンとの比較と魅力
「打上花火」は、DAOKOと米津玄師のデュエットによるオリジナルバージョンに加え、米津玄師自身が単独で歌唱するソロバージョンも存在します。
それぞれのバージョンは独自の魅力を持ち、楽曲に対する異なる視点を楽しむことができます。
DAOKO×米津玄師バージョンの特徴
デュエットバージョンでは、DAOKOの透明感あふれる声と米津玄師の深みのある歌声が交互に響き合い、楽曲にダイナミックな物語性を生み出しています。
特に、2人の声が交わるハーモニーが切なさを一層引き立て、青春の甘酸っぱさや恋の儚さを聴き手に強く感じさせます。
このバージョンでは、「君」との共有された時間が持つ多幸感と、それが過ぎ去ることへの哀愁が、鮮やかに表現されています。
米津玄師ソロバージョンの魅力
一方、米津玄師のソロバージョンは、アルバム『BOOTLEG』に収録されています。
このバージョンでは、オリエンタルで幻想的なサウンドが際立ち、楽曲全体が浮遊感のある仕上がりとなっています。
虫の音や静寂を感じさせる音の配置が、夜の静けさと花火の儚い美しさを一層強調し、聴き手を独特の世界観へと誘います。
ソロバージョンでは、米津玄師自身が歌詞全体を通して語り手としての役割を担うため、個人的な感情の深さがより明確に伝わります。
「君」に対する思いを語り手が全て受け止め、内省的に表現している点が印象的です。
その結果、デュエットバージョンよりも静かな余韻を伴い、深い感傷を感じさせる楽曲となっています。
2つのバージョンが持つ補完的な魅力
デュエットバージョンとソロバージョンは、聴き手に異なる感情をもたらします。
前者は「共有された時間の美しさとその喪失」をダイレクトに感じさせる一方、後者は「過ぎ去った時間を静かに思い返す切なさ」を際立たせます。
両方を聴き比べることで、「打上花火」という楽曲が持つ多層的な感情の深さを、より一層楽しむことができます。
「打上花火」のデュエット版とソロ版の比較は、聴き手に楽曲の別の側面を提示し、音楽の表現の幅広さを再認識させてくれます。
どちらのバージョンもそれぞれの美しさを持ち、それがこの楽曲を長く愛される理由の一つとなっているのです。