1. FF16との密接なリンク:ゲームの物語を歌詞に込めた背景
『月を見ていた』は、スクウェア・エニックスの大作RPG『FINAL FANTASY XVI』のテーマソングとして制作されました。このゲームのストーリーは、宿命や戦争、人間関係の葛藤、そして過去との決別といった重厚なテーマを含んでいます。米津玄師が本楽曲を制作するにあたっては、ゲームディレクターとの密な対話を重ねたと公言しており、歌詞にもその重みが反映されています。
特に「何ひとつ正しくなくていい」というフレーズは、戦乱の中で道徳や正義を問う余裕のないキャラクターたちの切実な思いを代弁しているようです。ゲームの中で描かれる「命をかけて守るもの」の存在が、歌詞の中で非常に繊細に語られています。プレイヤーがゲームのラストでこの曲を聴くとき、物語全体を総括するような深い余韻が残るのはそのためでしょう。
2. “月明かり”の象徴性と“柳”・“礫”のイメージ描写
「月を見ていた」というタイトル自体が象徴的で、暗闇の中にあって一筋の光を見上げる姿が連想されます。月は古来より孤独や静けさの象徴として用いられることが多く、本作でも「誰もいない場所で見上げる月」の存在が、歌詞の孤独感と美しさを引き立てています。
また、「柳の下を歩いた」や「礫(つぶて)を投げた」といった描写には、揺らぎや儚さ、過去への後悔といった情緒が込められているようです。特に柳は中国や日本の詩歌では別れや死と結びつくことが多く、ここでは「別離の記憶」と「再会の祈り」が交差する瞬間を演出しています。
礫という言葉の使用も非常に珍しく、乾いた音と感情の乖離が感じられます。これはまさに、心の奥底に沈殿した後悔や断ち切れない思いを表現していると言えるでしょう。
3. 別れゆく二人の視点:命の灯と再会への祈り
歌詞全体を通じて見られるのは、愛する人との「別れ」と「再会」への希求です。「君がいなくなる前に」と始まる歌詞では、不可避な別れの瞬間に向き合う姿が描かれており、まるで残された者の独白のように響きます。
後半では、「もしも生まれ変わっても見つけてみせるだろう」といったフレーズが登場し、ここには単なる希望ではなく、深く根差した信念が表れています。命が尽きても絆は続くという輪廻的な思想が込められており、この視点が一貫していることで、楽曲には宗教的ともいえる神聖さが漂います。
また、ここで語られる「君」は、恋人であるとも、家族であるとも、親友であるとも解釈可能で、聴き手の人生経験によって多様な共感が得られるよう設計されている点が、米津楽曲の魅力のひとつです。
4. 輪廻転生と生まれ変わり:繋がる絆への希求
「もしも生まれ変わったとしても 見つけてみせるだろう」という一節は、仏教的な輪廻転生の思想を強く連想させます。これは、単なるロマンティックな愛の表現というより、「存在の根本にある再会への約束」のような重みを持っています。
一度失った存在は二度と戻らないという現実を抱えつつも、「それでも探し続ける」と決意する姿勢には、深い情念と悲しみが共存しています。これは、人生の中で大切なものを失ったすべての人へのメッセージとも解釈できるでしょう。
また、米津玄師は過去のインタビューでも「生と死の境目」に強い関心を持っていることを語っており、本作でもその思索が詩的に結晶化していることが伺えます。
5. “すべてを燃やして月を見ていた”:人生の決断と救いのイメージ
ラストに登場する「すべてを燃やして月を見ていた」というフレーズは、物語のクライマックスとも言える象徴的な場面です。ここには、過去の後悔も苦しみも含めてすべてを受け入れ、最終的に自分自身を浄化しようとする姿勢が表れています。
火と月という対照的な自然の力が並置されており、燃やすことは破壊であると同時に再生でもあります。これはまるで、何かを手放さなければ前に進めないという人生の真理を暗示しているようです。
その後に再び訪れる静寂の中、「月を見ていた」という行為が、すべてを終えた者の「救いの視線」として描かれる点は非常に印象的です。ここには自己受容と解放の精神が満ちており、聴き終えたあとに深い余韻と希望が残ります。
総括
『月を見ていた』は、米津玄師が人生・別れ・再生といった普遍的テーマを、叙情的かつ象徴的な言葉で描き出した作品です。FF16という壮大な物語との融合を通して、より多面的な解釈が可能となっており、聴く人の数だけ「意味」が生まれるよう設計されています。
米津作品の真髄は、「誰かの物語」が「自分の物語」と重なるその瞬間にあり、『月を見ていた』はまさにその象徴とも言える楽曲です。