「愛す(ブス)」というタイトルの意味と捻くれた愛情表現
「愛す」というタイトルを「ブス」と読ませるこの曲の表記は、クリープハイプ特有の言葉遊びと皮肉な愛情表現が凝縮された象徴的な要素です。一見、相手を貶しているようにも見える「ブス」という言葉は、実は“本音を言えなかった不器用な愛”の裏返しであり、強い想いを言葉にできなかった後悔の表現でもあります。
この楽曲では、愛しいと思っていた相手に対して、思った通りに素直に「愛している」と言えず、結果的に「ブス」としか言えなかったという、心の葛藤が描かれています。つまり「愛す」というタイトルに隠された読み方「ブス」には、「本当は愛しているけれど、その気持ちを伝えられなかった」という屈折した愛情表現が込められているのです。
サビに込められた言葉にできなかった愛の葛藤
この曲のサビでは、「逆にもうブスとしか言えないほど愛しいのに それすら言えなかった」といったフレーズが登場します。この言葉には、相手に対して伝えたかった気持ちが心の中に溢れているにもかかわらず、それをうまく表現できなかった主人公のもどかしさがにじみ出ています。
歌詞の中では、過去の後悔とともに「伝えられなかった愛」というテーマが何度も繰り返されます。好きだったのに、自分の素直な気持ちをそのまま口にすることができなかった。そして、時が経ち、相手の存在が遠くなって初めてその思いが強く自覚される…。このような経験は、多くのリスナーが共感できる「言葉にできなかった愛」の物語です。
「蕎麦と黄身」の比喩が意味するものとは?
この楽曲の中でも特に印象的なフレーズが、「君=黄身」「そば=側」という言葉遊びです。このような比喩表現は、クリープハイプの楽曲でよく使われるスタイルですが、ここでは相手との距離や、自分の気持ちの伝え方を象徴しています。
「君がそばにいる=黄身が蕎麦にある」というユーモラスな比喩は、一見ふざけているようでいて、実は「どんなに近くにいても本当の気持ちは伝わっていない」関係を表しているのです。こうした言葉の使い方によって、楽曲全体に“伝えられないままの愛情”というテーマが一貫して貫かれていることが感じられます。
また、「黄身=キミ」と音で重ねることで、言葉の軽さと感情の重さがコントラストとなり、聴く者に深い印象を与えます。
バスは何を象徴する? “時間通りに来るバス”と恋の終わり
曲中で登場する「時間通りに来るバス」や「ドアが閉まる」といった情景描写は、恋の終わりや逃してしまったチャンスの象徴です。時間通りにバスが来ることは本来「正確である」ことを示しますが、ここでは逆に「もう戻れない」「決められた終わり」を意味しています。
例えば、「バスのドアが閉まるのを見ていた」という場面は、相手が自分の元を離れていった瞬間、あるいは気持ちを伝える最後のチャンスを逃した瞬間を暗示しており、それが主人公の後悔と結びついています。
このように、バスという日常的なアイテムを象徴として巧みに使うことで、誰にでもある日常と恋の喪失を重ね、リスナーにリアルな感情を思い起こさせる仕掛けが施されています。
クリープハイプらしさ=「不器用な一人称」と比喩の重層構造
この楽曲に限らず、クリープハイプの楽曲に共通するのは、「不器用な一人称」の語り口と、比喩の重層構造です。主人公はいつも素直ではなく、どこかねじれていて、言いたいことを正面から伝えられない人物として描かれることが多いのです。
「ブス」としか言えなかった主人公もその一例であり、「自分はこんなにも相手を愛していたのに、それを真っ直ぐ伝えることができなかった」という悔しさが、歌詞の随所に現れています。
また、言葉遊びや比喩表現が複数の意味を含んでいることで、聴き手によってさまざまな解釈が可能になっている点もクリープハイプの魅力の一つです。「黄身」「蕎麦」「バス」など、一見なんてことのない単語が、曲の中では深い意味を持って語られるのです。
総まとめ:歪な愛の表現が、共感を呼ぶ
『愛す』は、好きだからこそうまく言えない、伝えたいのに伝えられないという、不器用な愛の物語です。その愛の形は決してストレートではありませんが、だからこそ多くのリスナーの心を打ちます。
「ブス」としか言えなかった過去、「黄身」と「蕎麦」に託した想い、「バス」の閉まるドアに象徴される別れ…。どの描写にも、誰もが一度は経験したことのある「後悔」が詰まっており、それがこの楽曲の普遍的な魅力となっています。