1. 四季の巡り──「秋→冬→春→夏」の風景と心情の移ろい
「冬眠」の歌詞は、時間の流れとともに変化する四季を繊細に描きながら、その変化に寄り添うように心情も移り変わっていく様子を表現しています。
「秋になって」「冬になって」「春になって」「夏を待って」というフレーズは、ただ季節を並べているわけではありません。それぞれの季節が持つイメージ──例えば秋の寂しさ、冬の閉塞感、春の希望、夏の焦燥感──が、歌詞の中で主人公の心象と重なって描かれており、聴く者に時間の経過と共に変化していく「心の気候」を感じさせます。
特に、「夏を待ってる」では希望と再生を感じさせる一方で、実際に夏に到達することなく楽曲が終わる点が印象的です。これは、常に“待つこと”の中にいる人間の心の不安定さ、あるいは到達点の不確かさを表しているようにも受け取れます。
2. “冬眠”というメタファー──逃避か、再生か?
タイトルにもなっている「冬眠」は、この楽曲の最も象徴的なモチーフです。動物が冬を越すために一時的に眠りにつくように、人間も苦しみや悲しみ、報われない現実から逃れるために「眠る=冬眠」ことがある、という感情の描写がなされています。
「ここじゃ報われない」「一度終わらせたい」というフレーズは、今いる場所や状況から逃れたいという切実な思いの表れです。一方で、「次の生にまた会おう」という歌詞が示すように、冬眠は単なる逃避ではなく、再び目覚めることを前提とした“再生”の時間でもあります。
このように「冬眠」は、現実の中で生きづらさを感じる人々の心を代弁するような存在であり、「一度死んで、また新しく生まれ変わる」ための通過点として描かれているのです。
3. 雲・風・水・花──存在の流転と形の変化
「雲に乗って」「風に乗って」「水になって」「花になって」という表現には、“形のある自分”から解き放たれて自由に存在したいという願いが込められています。
これらはどれも一定の形にとどまらず、変化し続けるものです。雲や風は姿をとどめず、水もまた形を変えながら流れ、花もやがて散って土へと還ります。そうした“存在の流転”を通して、主人公は固定された現実から離れ、「誰かでなくなる」こと、「個であることをやめる」ことを望んでいるようにも読み取れます。
この視点は、「自己というものの喪失=自由」という逆説的な思想を内包しており、現代的な“アイデンティティの解体”とも共鳴します。
4. 記憶と忘却──「忘れること」と「思い出すこと」の狭間
「冬眠」の歌詞では、「忘れることが自然なら」「想い出なんて言葉作るなよ」という対照的なフレーズが登場し、“忘れるべきもの”と“忘れたくないもの”との間で揺れる心情が浮かび上がります。
「忘れること」は、生きていくために必要な“癒し”の機能である一方で、誰かを大切に思う感情の否定にもなりうる──この葛藤が歌詞全体に張り巡らされています。特に「記憶から消えるように」という表現は、無理に忘れようとする痛みと、それができない苦しみを同時に表しており、聴く者の心を締めつけます。
また、「思い出さないように思い出す」という構造的に矛盾した感情表現が、より深い情緒と心理の揺らぎを強調しています。
5. 輪廻転生と死生観──次の“生”に希望を託す心
ヨルシカの楽曲に通底するテーマの一つに“輪廻”や“死生観”がありますが、「冬眠」でもそれが色濃く表れています。
「次の生にまた会おう」というラインは、生まれ変わりの思想と再会への願いを内包しています。これは、単なるロマンチシズムではなく、今を生きることの苦しみと対峙しながらも、未来への希望を捨てきれない人間の本質を表しています。
さらに、「神様なんていない」「夢は叶うなんて嘘」といった一見冷たい表現が挿入されることで、現実への絶望感が強調されますが、同時にそれでも“また会いたい”と願う主人公の温もりや未練も浮かび上がります。
ヨルシカが同時期に展開した「前世」や「幻燈」などの作品群と重ね合わせることで、「冬眠」はより深い死生観と希望の物語として読み解くことができるでしょう。