【ただ君に晴れ/ヨルシカ】歌詞の意味を考察、解釈する。

「思い出」を思い出すトリガーとは

この世界は寒い時もあれば暑い時もある。

からりと乾いている時もあれば、しっとりと湿っている時もある。

色々な匂い、色々な音、明るく陽が照らしている時もあれば、沈んだような暗闇に身を潜める時もある。

あなたの思い出を思い出させるトリガーはその時の状況だ。

その時どんな温度だったのか、どんな匂いがしたか、どんな音が流れていたのか、光の中にいたのか、闇の中にいたのか。
その状況を再び経験した時に人は「思い出」を思い出す。
どこからか漂う夕食を煮炊きする匂い、ぽつりぽつりと道路を打つ雨が放つアスファルトの匂い、じりじりと肌を焼くある夏の日、きりっとした空気の中、身を縮こませて歩く冬の日、しっとりと湿った夜に響く虫の声、沈もうとしている夕日が溶ける海、一人歩く都会の暗闇に見上げた月、そういうふとした瞬間に、人は何かを思い出す。

今回取り上げるヨルシカの「ただ君に晴れ」は夏を歌っている。
今はもうそばにいない「君」といた夏の日を歌った曲である。

ヨルシカは季節を歌った曲を多く作っている。
タイトルだけでも「春ひさぎ」「春泥棒」「夏陰、ピアノを弾く」「あの夏に咲け」「冬眠」「夏、バス停、君を待つ」などがあり、曲中で季節感のある情景を描く事も多い。
むしろ、その情景を描く事こそがヨルシカの真髄なのではないだろうか。
それぞれの季節が持つ色、湿度、匂いをトリガーとして用い、心に刻まれた思い出を想起させる。
歌詞だけではなく、ボーカリスト・suisの声とメロディ、サウンドもその思い出を彩る。
何を思い出すのかは聴いた人によって変わってくるのだろう。
誰しもが経験した情景。
ヨルシカが多くの人々に受け入れられているのは、見たことも感じたこともないような未体験の世界ではなく、誰しもが心に持つなんでもないような一日、瞬間、情景を描いているからではないだろうかと推察する。

今回はヨルシカがブレイクするきっかけになったであろう、この「ただ君に晴れ」を考察してみたい。

思春期のある夏の日を思い出す「大人になった僕」

夜に浮かんでいた

海月のような月が爆ぜた

バス停の背を覗けば

あの夏の君が頭にいる

だけ

鳥居 乾いた雲 夏の匂いが頬を撫でる

大人になるまでほら、背伸びしたままで

遊び疲れたらバス停裏で空でも見よう

じきに夏が暮れても

きっときっと覚えてるから

追いつけないまま大人になって

君のポケットに夜が咲く

口に出せないなら僕は一人だ

それでいいからもう諦めてる

だけ

まず「僕」が見るのは「夜に浮かんでいた海月のような月」である。

おそらく、夜の海の水面に映る月が波によって崩れるさまを描いているのではないだろうか。

そして「僕」は思い出す。
まだ子供だった頃を一緒に過ごし、今はもう離れてしまった「君」の事を。

頭にある情景は長閑で牧歌的だ。
蝉の声が喧しく響き、照りつける夏の太陽と青空。
雨の気配はまだなく、じりじりと肌を焼く。

「君」と歩く道すがらには古くからある神社があり、鳥居が構えている。
風が気持ちよく頬を撫でる、何でもないような、しかし二度とは来ないある夏の日。
そんな何でもないような一日を、「大人になった僕」は思い出す。
「大人になった」というのは実際的な表現ではなく、「ある一つの出来事を経て、それまでになかった感情を知った自分」の比喩表現ではないだろうか。
そして、「ある一つの出来事」が「君との別れ」であることは想像に難くない。
悲しみを一つ知る。
それが「大人になる」ということなのではないだろうか。

そして、「君」もまた悲しみを知り「大人」になってゆく。
昭和を代表する歌姫、美空ひばりの歌に「東京キッド」という歌がある。
その一節に「ポケット」は登場する。

右のポッケにゃ 夢がある

左のポッケにゃ チュウインガム

東京キッド

東京キッドの「ポケット」には夢と希望が詰まっている。

しかし、「君」のポケットには夜が咲く。
夜は明から暗への比喩表現で、「ポケットに夜が咲く」というのは、それまで夢や希望が詰まっていたポケットに夜という暗闇が広がる、つまり「思春期における様々な経験」を意味しているのではないだろうか。
異性との関わり、将来への不安、自分という存在のアイデンティティー。
思春期はそれまでに感じなかった感情を数多く経験する時期である。
一足先にそれを経験し変わってゆく「君」に対し、「僕」は置いていかれたような感情を覚える。
無垢なままで、純粋なままでずっと過ごしたいという思いは打ち砕かれ、「僕」は大人になることを受け入れる。
半ば諦めたような思いで。

正岡子規を引用した自己肯定

夏日 乾いた雲 山桜桃梅 錆びた標識

記憶の中はいつも夏の匂いがする

写真なんて紙切れだ

思い出なんてただの塵だ

それがわからないから、口を噤んだまま

絶えず君のいこふ 記憶に夏野の石一つ

俯いたまま大人になって

追いつけない ただ君に晴れ

口に出せないまま坂を上った

僕らの影に夜が咲いていく

俯いたまま大人になった

君が思うまま手を叩け

陽の落ちる坂道を上って

僕らの影は

追いつけないまま大人になって

君のポケットに夜が咲く

口に出せなくても僕ら一つだ

それでいいだろ、もう

君の想い出を噛み締めてる

だけ

二番でも引き続き、「君」との別れが歌われている。

特筆すべきは正岡子規の俳句から引用された「絶えず君のいこふ 記憶に夏野の石一つ」という一節だろうか。
原文は「絶えず人 いこふ夏野の 石一つ」であり、意味としては様々な解釈がされているが、「夏の野原に転がる石にも人が腰掛け、休むという役割がある」というところだろうか。
どんなものにも、転じてどんな人にも居場所と役割は必ず存在する、という前向きな一句であると私は思う。
「ただ君に晴れ」においては「絶えず人」が「絶えず君」に変わっており、普遍的な役割よりも「君にとっての僕の役割」というニュアンスが感じられる。
人は補い合い、補完しあって絆を紡いでゆく。
歌の後半では「口に出せなくても僕ら一つだ」という一節があり、「僕」と「君」の絆を確かに感じさせる。
そして既に触れた通り、僕と君は既に離れている。
その比喩表現が「僕らの影に夜が咲いていく」という一節に込められている。

「僕」と「君」はどちらがリードする立場なのだろうか。
印象としては「少し大人びていて大きな夢や目標を持つ君」と「おとなしく後ろをついていく僕」という印象がある。
しかし、「君」には「僕」が必要であり、「僕」には「君」が必要である。
少し過激な表現になるが、サドマゾの関係性を引用したい。
SはMなしに成立しないし、逆もまた然りである。

また、漫画「幽遊白書」に登場するエピソードを一つ紹介したい。

幼なじみの二人、木内えりと佐藤勝美は二人共優等生として一枠しかない進学校への推薦枠を争っていた。
おとなしいえりと、男勝りの勝美。
幼い頃から仲良しだった二人の絆には「進学」という出来事によって亀裂が入る。
勝美は半信半疑のまま行った呪いでえりを蹴落とそうと画策する。
一時の気の迷いである。
後悔した勝美は呪符を破り捨てるも時既に遅く悪霊の力によってえりは命の危機に晒される。
幼い頃からいじめられていたえりを男勝りな勝美は何度となく助ける。
えりは勝美に感謝する。
勝美がえりを助けている図式だが、勝美はえりを助けることにより自己の安定を得ている。
悪霊は漫画の主人公・浦飯幽助により退治され事なきを得る。
泣きながらそばにいた勝美に礼を言うえり。
しかし、勝美も「助けてもらったのは私の方」と泣く。
この場合、どちらが「夏野の石」かは関係ない。
お互いがお互いの「夏野の石」として補完しあっているのである。

「僕」もこう言い放つ。
「口に出せなくても僕ら一つだ」と。

「ただ君に晴れ」における「僕」と「君」も以前に考察した「花に亡霊」と同様、性別を問わない物語であると私は思う。

「僕」は女性でもいいし、「君」は「僕」と同姓でもいい。

その解釈の寛容さが、この「ただ君に晴れ」を単純な思春期の恋愛ソングから聞き手一人ひとりの心を打つ特別な歌に昇華させるのではないだろうか。

ヨルシカが数多く発表した美しい物語。
この「ただ君に晴れ」はその試金石になったであろう名曲である。