【花に亡霊/ヨルシカ】歌詞の意味を考察、解釈する。

「情報」のない音楽とは何か

音楽に限らず、モノの価値というのは情報によって定められることが多い。

例えばそのシャツに「LOUIS VUITTON」というプリントがしてあればそのシャツの値打ちは格段に上昇する。
全く同じ素材、全く同じ製法で作られたシャツであっても、その印字には何千円、何万円もの「価値」があると見なされる。

例えばその古ぼけたギターに、ジミ・ヘンドリックスが所有していたもの、という情報が付与されると価値は何倍、何百倍と跳ね上がる。
全く同じ音色を出すギターが他にあったとしても、「ジミヘンが所有していた」という情報には何万ドルもの価値がある。

普遍的ではなく、パーソナルな範囲での価値もある。
敬愛していた人物の遺品、思い出の品、一見大した価値のないモノに見えても、その人にとってはとてつもなく大切なモノ、ということは珍しいことではない。

情報は時に「物語」という形を取る場合もある。
ドラマ「北の国から」で黒板純が北海道を離れ上京する時に、街まで載せてもらうため父である五郎はトラックの運転手にいくばくかの金を渡す。
泥の付いた一万円札。
運転手は「俺は受け取れねえ。お前の宝にしろ。一生取っとけ」と純に渡す。
その一万円が、その一万円にまつわる物語が、その人にとってどれほどの価値になるのかはその人次第だが。

今回取り上げるヨルシカの「花に亡霊」は映画「泣きたい私は猫をかぶる」の主題歌である。
しかし、物語に沿って作られたというわけではない。
作者であるヨルシカのソングライター、n-bunaにその意図はない。
同映画の挿入歌もヨルシカが手掛ける「夜行」だが、こちらにも物語に寄り添った部分はない。
少なくとも、n-bunaにその意図はない。

インタビューではこう語られている。

純粋に、きれいなメロディ、きれいな情景を並べた歌を作ろうと思ってできた曲なので。
だからこそ、映画の世界観ともマッチしたと思うんです。
そのときの僕は、意味を込めた歌への反発をしたかったんです。
ヨルシカというものには、オマージュの元や、テーマなど、そのとき書きたいものがはっきりあって、聴いた方たちがそれを汲み取ろうと考えてくださる。
そういうものへの反発がしたかったんです。
その作品がどうやってできたかという情報にめちゃくちゃ重きを置く世の中に対しても。
それって、自分がその作品に感動した理由を探そうとしているんですよね。
「この作品はこんな過酷な経験から生まれた」とか、「魂を削って、何日も食べずに創作した」とか、そういうことが尊ばれる。
でもそれは情報でしかない。
作品の価値にはまったく影響しないと僕は思うんです。
だから、自分のなかで純粋に綺麗だと思うこと、溢れてきた言葉、メロディを、意味を含めずにつなぎ合わせても、絶対に美しい作品になる、という曲を書きたかったんです

n-bunaの頭の中には、少なくとも意図的には物語の登場人物、美代や賢人といった要素はない。

しかし、映画を見て、この曲が流れてくる時、「二人」という言葉からあなたが連想するのは美代と賢人であろう。

n-bunaはその解釈を決して否定しない。
そして、ヨルシカの歌い手であるsuisはこう語る。

n-bunaくんと私は、自分のために、自分の好きなように、ヨルシカをつくってきたので、届いた作品を聴く皆さんにも、自分のためだけに、ヨルシカを聴いて使っていただければ、うれしい

今回はこの「花に亡霊」を考察してみたい。

音楽の意義とは何か

もう忘れてしまったかな

夏の木陰に座ったまま、氷菓を口に放り込んで風を待っていた

もう忘れてしまったかな 世の中の全部嘘だらけ

本当の価値を二人で探しに行こうと笑ったこと

忘れないように 色褪せないように

形に残るものが全てじゃないように

言葉をもっと教えて 夏が来るって教えて

僕は描いてる 眼に映ったのは夏の亡霊だ

風にスカートが揺れて 想い出なんて忘れて

浅い呼吸をする、汗を拭って夏めく

もう忘れてしまったかな

夏の木陰に座った頃、遠くの丘から顔出した雲があったじゃないか

君はそれを掴もうとして、馬鹿みたいに空を切った手で

僕は紙に雲一つを書いて、笑って握って見せて

忘れないように

色褪せないように

歴史に残るものが全てじゃないから

今だけ顔も失くして

言葉も全部忘れて

君は笑ってる

夏を待っている僕ら亡霊だ

心をもっと教えて

夏の匂いを教えて

浅い呼吸をする

忘れないように

色褪せないように

心に響くものが全てじゃないから

言葉をもっと教えて

さよならだって教えて

今も見るんだよ

夏に咲いてる花に亡霊を

言葉じゃなくて時間を

時間じゃなくて心を

浅い呼吸をする、汗を拭って夏めく

夏の匂いがする

もう忘れてしまったかな

夏の木陰に座ったまま、氷菓を口に放り込んで風を待っていた

人は何のために音楽を聴くのだろうか。

世の中には様々な音楽がある。
明るい曲、暗い曲、悲しい曲、楽しい曲、美しい曲、激しい曲、様々な形の音楽がこの世の中には一生かけても聴ききれないほどたくさん存在する。

音楽の役割も数多くあるが、一つには「感情のコントロール」がある。
楽しくなりたい、元気になりたい、深く落ち着きたい、芸術的な楽曲に感動したい、音楽によって人は様々な感情を覚える。

出来れば、手っ取り早く。

インタビューで触れられている通り、人は感動を求める。

自分がより感動するための情報を探す。
カエサルは言った。「人は見たいものしか見ない」

表現する側も、受け手がその情報を欲しているとわかっている場合、演技をする。
音楽に限らず、スポーツでも、政治でも、観衆の期待に応えるために演技をするのは珍しいことではない。
むしろほとんどの場合、表現者・発信者は多少の差こそあれど、演技をする。
情報を付与しようとする。
我々は生まれた時から無意識にそれを強要され、また強要している。

一般的にそれは「パフォーマンス」などと呼ばれている。

n-bunaはそれに反発してこの楽曲を作った。
映画に寄り添った内容ではない。
ただ自分がシンプルに綺麗だと思う歌詞、メロディ、サウンドをつなぎ合わせて作った、というのがn-bunaの制作動機である。
受け手としては寂しいものもあるかもしれない。
もっと、原作を読んで感動してこの曲を作りました、とか、美代と賢人のある夏を思い浮かべて作りました、などという「感動するための情報」を欲する人もいるかもしれない。
しかし、この作品にそういった情報も、物語も存在しない。

存在しなければ、自分で作り上げればよい。

n-bunaの意図はそこなのではないだろうか。

「二人」はあるいは、あなたとあの人である。

「夏」はあなたが過ごしたある年の夏である。

「亡霊」はあなたが想っていた、今はもうそばにいないあの人のことである。

「僕」は女性を指してもいいし、「君」はあなたと同性でもいい。

こんな夏なかったなあ、という人は妄想でもいい、あの人とこんな夏を過ごしたかったなあ、という想像に浸ってみるのもいい。

n-bunaの意図は、「好きに聴いて、好きな物語を描いてほしい」ということなのではないだろうか。

そして、その物語は誰かに与えられたり、説明されたりするものではなく、自分自身で描いて作り上げるもの、とn-bunaは意図しているのではないだろうか。

この「花に亡霊」という作品には、誰かから与えられる物語も、多くの人に同じように通用する「手っ取り早い感動のための情報」も存在しない。

あるのは、美しいメロディと切なく爽やかなサウンド、そして「あなたが作り上げる物語」だけである。