ヨルシカ「左右盲」歌詞の意味を考察|『幸福な王子』と“忘れていく愛”が示す本当の幸福

ヨルシカ「左右盲」は、ただの失恋ソングではありません。

この曲で描かれているのは、愛する人と別れる悲しみ以上に苦しい、**「大切だった人のことを少しずつ思い出せなくなっていくこと」**です。

右手だったか、左手だったか。

眉はどちらが少し垂れていたのか。

昨日まで当たり前のように知っていたはずの「君」の細部が、少しずつ曖昧になっていく。

ヨルシカ側も公式に、「左右盲」がオスカー・ワイルド『幸福な王子』をモチーフに制作され、相手の顔や仕草を少しずつ忘れていくことを“左右盲”になぞらえた楽曲だと説明しています。

そして歌詞を最後まで追っていくと、この曲が描いているのは単なる「忘れたくない」という未練ではないことが分かります。

むしろ最後に待っているのは、

「自分がいなくても、君には幸せになってほしい」

という、痛いほど優しい愛です。

なぜタイトルが「左右盲」なのか。

なぜ『幸福な王子』がモチーフになっているのか。

そして終盤に登場する「君の幸福は一つじゃない」という言葉には、どのような意味があるのでしょうか。

歌詞全体から考察していきます。

ヨルシカ「左右盲」とは?

「左右盲」は、2022年7月25日にデジタルシングルとしてリリースされたヨルシカの楽曲です。作詞・作曲はn-buna。ボーカルをsuisが担当しています。

また、道枝駿佑、福本莉子出演の映画『今夜、世界からこの恋が消えても』の主題歌として書き下ろされました。

さらに「左右盲」は、ヨルシカが文学作品をモチーフとして展開していた一連の楽曲の一つでもあります。

今回モチーフとなったのは、オスカー・ワイルドの童話『幸福な王子』。

この事実を知っているかどうかで、「左右盲」の見え方は大きく変わります。

「左右盲」というタイトルの本当の意味

タイトルだけを見ると、「右と左が分からない」という状態そのものを題材にした曲のように思えます。

しかし、ヨルシカ公式によれば、この曲で「左右盲」になぞらえられているのは、愛する相手についての記憶が徐々に失われていくことです。

重要なのは、「君」の存在そのものを突然忘れるわけではないということ。

曲の冒頭では、語り手である「僕」は「君」の手や眉の特徴を細かく覚えています。

ところが曲が進むにつれて、

右だっただろうか。

左だっただろうか。

という迷いが生まれていく。

つまり「左右盲」は方向感覚の話ではありません。

かつて誰よりもよく知っていた人の輪郭が、記憶の中から少しずつ欠けていく感覚

なのです。

ここがこの曲の非常に残酷なところです。

完全に忘れてしまえば、忘れたことにすら気づかないかもしれません。

しかし「左右盲」の主人公はまだ覚えている。

覚えているからこそ、

「前は分かっていたはずなのに」

という喪失に気づいてしまうのです。

忘却そのものではなく、忘れていく途中を描いた歌だと考えると、「左右盲」の切なさがより鮮明になります。

最初は「君」のことを細部まで覚えていた

冒頭で描かれるのは、とても日常的な光景です。

大きな出来事が起こるわけではありません。

温かい飲み物。

頬杖をつく相手。

眉の形。

朝の光。

そこにあるのは、恋人同士であれば見過ごしてしまうほど普通の時間です。

しかし、だからこそ重要なのでしょう。

人を好きだった記憶とは、必ずしも誕生日や旅行や告白といった特別な出来事だけでできているわけではありません。

「コーヒーを飲むときはこうしていた」

「こんな表情で本を読んでいた」

「笑ったとき、眉が少し下がっていた」

そんな、他人にとってはどうでもいい情報こそが、その人を「その人」にしている。

「左右盲」が描いているのは、その小さな情報が一つずつ失われていく恐怖なのではないでしょうか。

顔を完全に忘れる前に、まず細部が崩れていく。

その最初の亀裂として「右」と「左」が分からなくなるのです。

なぜ何度も「一つでいい」と願うのか

「左右盲」の大きな特徴が、「一つでいい」という願いが繰り返されることです。

主人公が求めているものは多くありません。

たった一つ。

君の心を動かせる何か。

君が暗闇を歩いていける何か。

君を幸福にできる何か。

ただ、それだけを残したいと願っています。

しかし歌詞で描かれる願いには、現実には存在しないようなイメージが並びます。

散らない花。

夜に差し込む太陽。

夏に降る異質な氷。

つまり主人公が欲しがっている「一つ」は、簡単には手に入らないものなのです。

なぜなら本当に欲しいものは、おそらく、

永遠に失われない幸福

だからです。

人は変わる。

恋も終わる。

記憶も薄れる。

いつか死ぬ。

それでも「これだけは絶対に消えない」と言えるものを一つだけ残したい。

そんな不可能な願いが「一つでいい」という言葉に集約されているように思えます。

『幸福な王子』を知ると歌詞の意味が変わる

ここで重要になるのが、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』です。

物語に登場する「幸福な王子」は、宝石や金箔で美しく飾られた王子の像。

生前は悲しみを知らずに暮らしていましたが、高い場所から街を見渡せる像になったことで、初めて人々の貧しさや苦しみに気づきます。

王子は一羽のツバメに頼み、自分を飾っている宝石や金箔を困っている人々へ届けてもらいます。

剣に付いていたルビー。

両目のサファイア。

身体を覆っていた金。

それらを次々と与えた結果、王子は美しさも視力も失っていきます。やがて冬が訪れ、そばに残ったツバメも命を落とし、王子の鉛の心臓は壊れてしまいます。

「左右盲」に宝石や鉛の心臓を思わせるイメージが登場するのは、この物語を踏まえているためです。

そして主人公もまた、『幸福な王子』と同じようなことをしようとします。

自分自身を少しずつ削り取ってでも、それを「君」に渡そうとする。

ここで描かれている愛は、

「君を自分のものにしたい」という愛ではなく、「自分が失われても君を救いたい」という愛

です。

これこそが「左右盲」を単純な恋愛ソングでは終わらせない最大のポイントでしょう。

王子と「僕」は、本当に同じ存在なのか

ただし、『幸福な王子』と「左右盲」には重要な違いがあります。

『幸福な王子』では、王子は自分の身体から宝石や金を失っていきます。

一方「左右盲」の「僕」が失っていくのは、身体だけではありません。

「君についての記憶」そのものです。

王子が少しずつ裸になっていくように、「僕」の中にあった「君」の像も少しずつ剥がれ落ちていく。

言い換えれば、「左右盲」における宝石とは、二人が過ごした記憶なのかもしれません。

手の癖。

眉の形。

一緒に買った本。

そうした記憶の一つ一つが、王子の身体を飾っていた宝石のように失われていきます。

それでも主人公は、ただ取り戻そうとはしません。

残っているものを「君」に渡そうとする。

だからこの曲では、

忘れることと、与えることが同時に進んでいる

のです。

非常にヨルシカらしい逆説だと思います。

映画『今夜、世界からこの恋が消えても』との関係

「左右盲」は映画『今夜、世界からこの恋が消えても』の主題歌です。

同作では、眠るとその日に起きた出来事を忘れてしまう「前向性健忘」を抱える日野真織と、彼女と恋をする神谷透の物語が描かれます。KADOKAWA公式でも「日ごと記憶を失う彼女と、一日限りの恋を積み重ねていく日々」と紹介されています。

当然、「左右盲」の「記憶」というテーマは映画と強く響き合います。

ただし興味深いのは、映画の設定をそのまま歌詞にしたわけではないところです。

映画では真織が日々の記憶を失います。

対して「左右盲」では、「僕」の側が「君」の細部を思い出せなくなっていくように描かれる。

つまり楽曲は映画の設定を単純になぞるのではなく、

「愛する人を忘れる側」と「愛する人から忘れられる側」

という二つの痛みを反転させながら描いているとも考えられます。

だからこそ映画を知った上で聴くと、この曲はさらに苦しく聞こえるのでしょう。

「君の幸福は一つじゃない」がこの曲最大の答え

個人的に、「左右盲」の核心だと感じるのは終盤です。

それまで主人公はずっと、

一つでいい

と願っていました。

君を救えるものが一つあればいい。

消えないものが一つあればいい。

幸福が一つあればいい。

ところが終盤、その考えがひっくり返ります。

主人公は、君の幸福は一つだけではないという地点へ到達するのです。

この変化は非常に大きい。

序盤の主人公にとって、「君の幸福」と「自分」は強く結びついていたのでしょう。

自分が君を幸せにしたい。

自分が何かを残したい。

自分との思い出を忘れないでほしい。

それも確かに愛です。

しかし、その愛にはまだ「自分」が含まれています。

終盤の主人公は、そこからさらに一歩進みます。

僕が君の幸福でなくてもいい。

僕との記憶が君から消えてもいい。

僕がいない世界にも、君を幸せにするものはたくさんある。

そう理解した瞬間、「一つでいい」と願い続けてきた主人公は初めて、愛する人を自分から解放することができたのではないでしょうか。

これは諦めとは少し違います。

むしろ、

「自分抜きでも幸せになってほしい」と願えるところまで愛した

ということです。

『幸福な王子』の自己犠牲とも深くつながる部分です。

なぜ「僕の靴跡」を少しだけ残したいのか

それでも主人公は、完全に無私にはなれません。

君の世界に、自分が存在した痕跡をほんの少しだけ残したいと願っています。

ここがとても人間的です。

「全部忘れていい」

とは言い切れない。

でも、

「ずっと僕だけを覚えていて」

とも言わない。

ほんの少しでいい。

自分と出会ったことで何かが変わっていてほしい。

顔を忘れてもいい。

声を忘れてもいい。

右手だったか左手だったか分からなくなってもいい。

それでも、人生のどこかに自分の歩いた痕跡だけが残っていてほしい。

この「少しでいい」という願いは、それまでの「一つでいい」と似ているようで意味が違います。

前半では「永遠に残る一つ」を求めていた主人公が、最後には、

消えてしまうことを受け入れた上で、わずかな痕跡だけを願っている。

そこに主人公の変化があります。

最後に「僕/君」から「私/貴方」へ変わる意味

「左右盲」には、もう一つ非常に気になる仕掛けがあります。

曲の大部分では「僕」と「君」という呼び方が使われています。

ところが最後だけ、「私」と「貴方」という関係へ変化します。

これは偶然とは考えにくいでしょう。

一つの解釈としては、最後に語り手が入れ替わったと読むことができます。

それまで「君」の幸福を願っていた「僕」。

その言葉を受け取るように、最後だけ「君」だった人物の側から「私」の感情が語られている。

映画との関係を考えれば、男女二人の視点が最後に交差したと読むことも可能です。

ただし、公式が語り手の交代を明言しているわけではないため、断定はできません。

それでも、この人称変化には注目する価値があります。

特に重要なのは、最後に語られるのが、

二人の心を「一つ」だと思っていた

という感覚だということです。

これは直前の「幸福は一つではない」という考え方と、美しく対照になっています。

「一つになる愛」から「別々に生きる愛」へ

「左右盲」を通して何度も登場するのが、「一つ」という概念です。

一つでいい。

一つだけ欲しい。

二人の心は一つだと思っていた。

恋をしているとき、二人が「一つになる」ことは幸せの象徴のように感じられます。

しかし現実には、人間は完全に一つにはなれません。

どれほど愛しても、

僕は僕で、

君は君です。

記憶も人生も別々に続いていく。

「左右盲」の主人公は、その当たり前で残酷な事実を受け入れていくのではないでしょうか。

最初は「一つ」を求めていた。

けれど最後には、君には君の人生があり、自分以外の幸福もあることを認める。

そう考えるとこの曲は、

「二人で一つになること」を愛とする物語ではなく、「別々の人間であることを受け入れること」を愛とする物語

なのかもしれません。

「左右盲」が描く“本当の幸福”とは

『幸福な王子』の王子は、自分が美しくあることよりも、誰かを救うために自分の宝石を失うことを選びました。

そして「左右盲」の主人公もまた、自分が「君」の人生の中心に居続けることより、君自身がこれから幸福に生きることを願います。

ここで両作品がつながります。

幸福とは、

自分が何かを所有することでも、

愛する人を自分だけのものにすることでも、

永遠に記憶してもらうことでもない。

大切な人が、自分の知らない場所でも幸せでいられること。

それを願うことができること。

それこそが、この曲がたどり着く「幸福」なのではないでしょうか。

だから「左右盲」はとても悲しい曲なのに、不思議と絶望だけでは終わりません。

主人公は「君」を忘れていく。

「君」もいつか主人公を忘れるかもしれない。

それでも、二人が出会ったことまで無意味になるわけではない。

記憶が薄れても、人生には何かが残る。

その小さな「靴跡」のようなものを信じている曲なのだと思います。

まとめ|「左右盲」は“忘れない愛”ではなく“忘れても残る愛”の歌

ヨルシカ「左右盲」は、愛する人を失う悲しみを描いた楽曲です。

しかし、その中心にあるのは単なる失恋ではありません。

「君」の手が右だったのか左だったのか分からなくなる。

眉の形を思い出せなくなる。

何気ない仕草が記憶から消えていく。

そうして主人公は、大切な人を少しずつ忘れていきます。

公式が説明する通り、「左右盲」とはまさにその忘却を表す比喩です。

そして『幸福な王子』の王子が自分の宝石を一つずつ差し出したように、主人公もまた自分に残されたものを「君」へ渡そうとする。

しかし、この曲で本当に重要なのはその先です。

最初は「一つでいい」と願っていた主人公が、最後には、

君の幸福は一つではない

と気づく。

ここに「左右盲」という楽曲の答えがあるのではないでしょうか。

愛することは、相手の人生を自分だけで満たすことではない。

いつか自分が忘れられたとしても、その人がその人自身の人生を歩き、別の幸福を見つけられることを願う。

だから「左右盲」は、

「君を忘れたくない」という歌であると同時に、「僕を忘れても幸せでいてほしい」という歌

なのでしょう。

忘れてしまったら、愛は消えるのか。

おそらく、この曲の答えは「そうではない」。

名前も顔も、右と左さえ曖昧になっても、

かつて誰かを愛したことで残された「靴跡」は、その人の人生のどこかに残り続ける。

「左右盲」は、そんな**“記憶よりも深い場所に残る愛”**を描いた楽曲なのだと思います。

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