【だから僕は音楽を辞めた/ヨルシカ】歌詞の意味を考察、解釈する。

ヨルシカの決意表明

デビューと同時に決意表明を行うアーティストは多い。
例えばイギリスのロックバンド、oasisの場合では「Rock ’N’ Roll Star」だろう。
ファーストアルバム「Definitely Maybe」の一曲目を飾るこの曲はoasisというバンドそのものを象徴する一曲だった。
傲岸不遜、オレ様の歌を聴け、ギャラガー兄弟はデビュー前から世界一のロックンロールバンドだった。

更に例えば、椎名林檎だとどうだろうか。
デビューシングル「幸福論」または「歌舞伎町の女王」「ここでキスして」といったシングルは彼女の世界観の一端を担っている。
そして発表されたファーストアルバム「無罪モラトリアム」は「正しい街」という曲で始まる。
私はこの曲こそが今日まで活躍を続ける椎名林檎の原点である、と思う。
故郷・福岡の街を離れ、夢と不安を抱えながら活動を続け、デビューを飾る。
自分はこの先、どういったアーティストになるのだろう、それは本人にもわからない事なのだと思う。
しかし、「Rock ’N’ Roll Star」や「正しい街」は間違いなくその後のアーティストを象徴している。
始まりの曲であり、あるいは終わりにも最も相応しい曲なのだと私は思う。
その他にもTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの「世界の終わり」や、くるりの「東京」といったデビュー曲はそのままバンドのコンセプトや精神性を表す重要な楽曲として各バンドを象徴しているのではないだろうか。

今回取り上げるヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」もそういった象徴的な楽曲なのだと思う。
この楽曲は同名のデビューフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」に収録されており、アルバムの最後を飾る楽曲でもある。
アルバムのコンセプトとしては「ある青年(エイミー)がスウェーデンを旅して書き溜めた音楽や手紙の入った木箱が、エルマという女性の元に届いた瞬間を描いたもの」とインタビューで語られている。
このコンセプトこそ架空のものではあるが、楽曲の内容としてはヨルシカの首謀者であるn-bunaのパーソナルな部分がぎっしりと詰め込まれており、「エイミー=n-buna」と受け取ってもそう間違いではないのではないだろうか。
n-bunaは芸術至上主義で繊細なエイミーを、「とは言っても音楽で成功するには一定の大衆性やセールスが必要」と考える自分と切り離し、一人のキャラクターに分離させている。
結果として、エイミーはこの楽曲のタイトル通りに音楽を辞め、死を選ぶ。
n-bunaはもちろん健在で、現在も精力的に活動を続けている。
様々な解釈があるとは思うが、私の解釈はこうだ。

「芸術至上主義で大衆に迎合したくない自分をエイミーとして消去し、音楽活動を続けていく」

これはn-bunaの決意表明である。
自分は音楽を続ける、その為にはエイミーという人格を消去しなければいけない。
そして、ヨルシカは前作ミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」に引き続きこの「だから僕は音楽を辞めた」でもゴールドディスクを獲得しヒットを収める。
n-bunaは前に進むため、このアルバムで「何か」を葬ったのである。
そして、n-bunaはコンセプトとして続編となる次作「エルマ」を完成させる。
こちらに収録されているのは亡くなったエイミーを想い、エイミーと同じくスウェーデンへ旅に出たエルマが書き上げた楽曲、という筋書きである。
収録楽曲の多くは「だから僕は音楽を辞めた」収録楽曲と対になっており、二枚で一枚のコンセプトアルバム、となっている。

今回は両アルバムの壮大のコンセプトにおいて重要なピースとなるこの「だから僕は音楽を辞めた」を考察してみたい。

n-buna自身の経験と心境?

考えたってわからないし

青空の下、君を待った

風が吹いた正午、昼下がりを抜け出す想像

ねぇ、これからどうなるんだろうね

進め方教わらないんだよ

君の目を見た 何も言えず僕は歩いた

考えたってわからないし

青春なんてつまらないし

辞めた筈のピアノ、机を弾く癖が抜けない

ねぇ、将来何してるだろうね

音楽はしてないといいね

困らないでよ

心の中に一つ線を引いても

どうしても消えなかった 今更なんだから

なぁ、もう思い出すな

間違ってるんだよ

わかってないよ、あんたら人間も

本当も愛も世界も苦しさも人生もどうでもいいよ

正しいかどうか知りたいのだって防衛本能だ

考えたんだ あんたのせいだ

考えたってわからないが、本当に年老いたくないんだ

いつか死んだらって思うだけで胸が空っぽになるんだ

将来何してるだろうって

大人になったらわかったよ

何もしてないさ

幸せな顔した人が憎いのはどう割り切ったらいいんだ

満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感

間違ってないよ

なぁ、何だかんだあんたら人間だ

愛も救いも優しさも根拠がないなんて気味が悪いよ

ラブソングなんかが痛いのだって防衛本能だ

どうでもいいか あんたのせいだ

考えたってわからないし

生きてるだけでも苦しいし

音楽とか儲からないし

歌詞とか適当でもいいよ

どうでもいいんだ

間違ってないだろ

間違ってないよな

間違ってるんだよ わかってるんだ

あんたら人間も

本当も愛も救いも優しさも人生もどうでもいいんだ

正しい答えが言えないのだって防衛本能だ

どうでもいいや あんたのせいだ

僕だって信念があった

今じゃ塵みたいな想いだ

何度でも君を書いた

売れることこそがどうでもよかったんだ

本当だ 本当なんだ 昔はそうだった

だから僕は音楽を辞めた

歌詞としては全体的に投げやりな絶望に侵されている。
怒りさえ感じる。
インタビューなどでも語られているが、n-bunaは楽曲制作に関して「取ってつけたような動機」を設けない。
質感や温度、メロディやサウンドに重きを置き、楽曲の解釈は聞き手に任せる、というスタンスだ。
この投げやりな絶望も、もしかしたらn-buna自身の正直なところなのか、それとも前項で触れたように「そう思う気持ちもあるけど、自分は音楽を続けていく。そう思う気持ち(エイミー)はここに葬る」という決別なのか、あるいは反面教師を皮肉るように、内省的な人物像をあえて描いているのかは不確定である。
ただ、結果としてn-bunaはヨルシカを続け、その後も多くの作品を生み出し続けている。

楽曲としては音の数が多い。
みっちりと詰め込まれ、性急な印象が強いが、私がふっと気になった一部分がある。

ねぇ、将来何してるだろうね

音楽はしてないといいね

困らないでよ

おそらくエイミーがエルマに対して言っている状況だろうが、「音楽はしてないといいね」と「困らないでよ」の間に、みっちりとした楽曲にあってぽっかりと空いた隙間がある。
この隙間は相手の無言を表現する手法としてハンバート・ハンバートの「おなじ話」でも使われた手法ではないだろうか。

どこへ行くの?

どこへも行かないよ

ずっとそばにいるよ

「どこへ行くの?」という問いに対し「どこへも行かないよ」と相手は答える。

それを聞いて無言になる相手を安心させるように「ずっとそばにいるよ」という言葉を渡す。

この空白に何を入れるのかは、聞き手次第である。

「音楽はしてないといいね」という相手、エイミーに対し、エルマは何を思うのだろうか。
音楽を続けてほしいけど、それがエイミーにとって辛い選択ということもわかっている。
何を言えばいいのか、どう言えばいいのか、エルマは返答に窮する。
それを見たエイミーの軽いフォロー。
というのが一つの解釈になるのではないだろうか。

n-bunaにとってヨルシカとは

インタビューではこう語られている。

n-buna:~僕はまだ全然満たされていないので。
早く自分が救われるような、人生の1曲が書きたい。
そういう気持ちは、最近になって強くなっているような気はします。
……ただ、そうは言っても最近は、ヨルシカで音楽を作ること自体が楽しくなってきたんですよ

―最初は違ったんですか?

n-buna:最初は、ビジネスとしてヨルシカを始めたので。

エイミーは売れること、自分の美学を崩して大衆に迎合することを拒絶し、そして音楽を辞めた。

n-bunaも本質的にはエイミーの心境だったのではないだろうか。
しかし、n-bunaは音楽を辞めず、ヨルシカというプロジェクトを(ビジネスのために)始め、多くの作品を生み出し続けている。
その成功は経済的な恩恵をn-bunaにもたらした。
きっと、もうヨルシカを辞めても好きな音楽を作って食べていけるだけの知名度と経験をn-bunaは得たのだと思う。
それでもヨルシカを続けているのは、ヨルシカが楽しくなってきたからだとn-bunaは語る。
もしそうでなければ、n-bunaはエイミーのように音楽を辞めていたのかもしれない。

n-bunaの相棒であり、ボーカルを務めるsuisもこう語っている。

suis:10代の頃は、自分が楽しんでいるその瞬間より、いずれその瞬間を思い返す未来がきたときに、それが「思い出」として美しくあることの方が重要だと思っていて。

だから若いうちに「思い出」になりうることをやっておかなきゃいけないと思って、生き急いでいたんです。
そうしたら20歳になった頃にはやりたいことがなくなっていて、「人生終わったな」って思ったんですよね。

だから、今、ヨルシカをやっているのは、思いがけずやってきた楽しい余生、みたいな感覚なんですよね。
ゲートボールよりはヨルシカだった、みたいな(笑)。

そして、n-bunaもこう語る。

n-buna:僕も同じような頃には、「隠居したい」ってずっと思ってたな。
湖のそばに家を建てて、そこで隠居しながら緩やかに死を待ちたいって(笑)。

何も起こらない人生、諦めと絶望に侵されたヨルシカの二人はそういう生活を望んでいた。
ただ、ひょんなことからヨルシカを始め、そして楽しむようになった。
もちろん、二人は「若い人たちにも諦めから脱却して前向きな人生を楽しんでもらいたい」などという取ってつけたようなことは絶対に言わないだろう。
ただ、エイミーのように儚く消えゆく生涯で本当にいいのか。
n-bunaは絶対口にしないだろうが、「絶望は誰にでもある。僕にも、suisにも、エイミーにも、君たちにも。絶望に侵された時、エイミーのように消えていくのか、前を向いて歩いていくのか、どっちを選ぶのかは自分次第」というメッセージがこの「だから僕は音楽を辞めた」には込められているのではないだろうか。

アルバム「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」を聴けば、物語に込められたメッセージを感じ取ることがきっとできるはずだ。