【歌詞考察】修羅(ヨルシカ)の意味を徹底解説|『春と修羅』モチーフが描く“ひとりの修羅”と冷たい怒り

ヨルシカの「修羅」は、月10ドラマ『僕達はまだその星の校則を知らない』の主題歌として書き下ろされた一曲。
タイトルの強さとは裏腹に、歌詞から立ち上がってくるのは、派手な“修羅場”ではなく、胸の奥で静かに続く葛藤です。とりわけ印象的なのが、「おれはひとりの修羅なのだ」という言葉が放つ孤独と自己否定の影。これは宮沢賢治『春と修羅』をモチーフにしている点とも重なり、春のやわらかさと、言葉にできない痛みが同居して聞こえてきます。
この記事では、「修羅」という言葉の意味から、視点(私/おれ/お前)の揺れ、自然モチーフ(風・春)の役割、そして“忘れたいのに寂しい”という矛盾までを手がかりに、歌詞が伝えるメッセージを丁寧に読み解いていきます。

ヨルシカ「修羅」はどんな曲?(主題歌・リリース背景・作品の立ち位置)

「修羅」は、カンテレ・フジテレビ系の月10ドラマ 『僕達はまだその星の校則を知らない』 の主題歌として書き下ろされた楽曲です。
楽曲タイトルが「修羅」であること、そしてドラマ初回(2025年7月14日)で初披露された旨は、公式発表にも明記されています。

配信面では、2025年8月8日にデジタル・シングルとしてリリースされたことが報じられています。
さらに制作の核として、宮沢賢治『春と修羅』をモチーフにしている点が、ドラマ公式ページのコメントや音楽メディアでも繰り返し触れられています。

ここで大事なのは、「修羅」が“ただ文学オマージュの曲”ではなく、ドラマのテーマ(若さ・校則・正しさ・感情の置き場)と結びつき、今の自分の中で制御しきれない何かを鳴らしていること。n-buna本人が、MV概要欄で「怒り」を“熱”ではなく“冷たい風”として語っているのも、その方向性をはっきりさせます。


タイトル「修羅」の意味を整理(阿修羅/修羅場/“ひとりの修羅”が示すもの)

「修羅」は、もともとサンスクリット語 asura(阿修羅) の略で、仏教では六道の一つ「修羅道」=怒り・争いが絶えない世界を指す言葉として説明されます。
現代語としての「修羅場(しゅらば)」が“激しい争いや最悪の場面”を意味するのも、この文脈から広がったものです。

ただし、ヨルシカの「修羅」は、戦場の派手な修羅場というよりも、内側でじわじわ続く闘争に焦点が当たっている印象が強いです。MV概要欄で語られる「怒り」が、噴火みたいな熱ではなく“すう、と冷たい風”だと言い切られているのが決定的。
つまりタイトルの「修羅」は、他人と殴り合う戦場というより、自分の感情と自分が戦っている状態の名札として機能している——そう読むと、曲全体の温度感が揃います。


宮沢賢治『春と修羅』とのつながり(引用・オマージュ・モチーフの読み解き)

公式コメント上でも、「春と修羅」が“共通項”として強く意識されていることが示されています。
賢治の『春と修羅』は青空文庫でも読めますが、その中にある有名な一節(「おれはひとりの修羅なのだ」)が、ヨルシカ側の文脈に引き寄せられているのがポイントです。

賢治の「修羅」が持つのは、世界や自己への強い緊張、そして“春”の生命感と矛盾しながらも同居する痛みです。
ヨルシカ「修羅」も、まさにその 「芽吹き(春)」と「胸のざわめき(修羅)」の同時進行 を、現代的な言葉に置き換えて鳴らしている。ドラマ公式側も「春と修羅」を介して、ドラマと楽曲が“柔らかく交わる”ことを願う旨を述べており、単なる引用で終わらせない設計が見えます。


歌詞の語り手は誰?「おれ/私/おまえ」の関係性と距離感

「修羅」は、語りの視点が固定されず、一人称・二人称がゆらぐことで、感情の輪郭がぶれていきます。これは“登場人物が複数いる”というより、同じ人の中の声が割れて聞こえるタイプの書き方だと捉えると、理解が進みます。

実際、ファン考察でも「私/おれ/お前」を“同一人物の別の顔”として扱う読みがあり、阿修羅(多面性)のイメージにつなげる解釈が提示されています。
ここは断定ではなく仮説ですが、「修羅」という語がそもそも“葛藤”を孕む存在(善悪が揺れる・争いが絶えない)として説明される点を踏まえると、視点の分裂はむしろタイトルと相性がいい。

読み方のコツは、「お前=他者」と決めつけずに、“自分に向けて投げた言葉”としても成立するように追ってみること。そうすると、曲の痛みが恋愛だけではなく、もっと広い“生き方の矛盾”に接続してきます。


「忘れたい」と「寂しい」の矛盾(感情の自己否定と自己肯定)

考察でよく言及されるのが、「忘れたい」と言いながら「寂しい」とこぼしてしまう、あの自己矛盾です。
これ、すごく人間的で、だから刺さります。

忘れたいのは“出来事”なのか“感情”なのか。多くの場合、私たちは出来事よりも、そこに付着した感情(後悔、みじめさ、怒り)を消したくて「忘れたい」と言います。
でも寂しさは、消そうとするほど輪郭を持つ。つまり「忘れたい」は自己防衛で、「寂しい」は本音。二つが同居してしまう瞬間こそ、曲名の「修羅」=内面の争いの核心だと思います。

そしてn-bunaが語る“冷たい風みたいな怒り”は、まさにこの矛盾の時に生まれる温度です。熱く爆発する怒りではなく、穴の縁をなぞる冷え。置き去りにされた感情が、静かに自分を刺す感じ。


「知らなかった」の反復が刺さる理由(気づき・後悔・幼さからの変化)

「知らなかった」という言い回しは、日常だと少し変わっていて、無垢にも皮肉にも聞こえる便利な言葉です。
“本当に知らなかった”なら幼さや鈍さの告白になるし、“知らなかった”と言い返すなら、相手の断定をいなす皮肉にもなる。

ファンの個人考察でも、この言い回しが“煽り”にもなる点や、相手への距離の取り方として効いている点が語られています。
だから「知らなかった」が反復されるほど、語り手の中で 受け身(傷ついた)と攻め(言い返したい)が同居しているのが見えてくる。

成長物語として読むなら、「知らなかった」は“気づき”の言葉でもあります。自分の感情の正体、相手の残酷さ、自分の弱さ——それらを、遅れて理解していく。その遅れが、胸に痛い。


自然モチーフの意味(風・春・海・日差し・夕焼け=感情の比喩)

「修羅」は自然描写、とくに風のイメージが強い曲です。これは制作側の言葉としても明確で、n-bunaが『春と修羅』の一節と共に“風”を感じていたこと、そして「怒り」を“冷たい風”として説明していることが、公式コメント/MV概要欄から読み取れます。

風って、目に見えないけど確実に触れてくるものです。つまり「言葉にならない感情」に向いた比喩。
春も同じで、本来は明るい季節のはずなのに、花粉や気圧や環境の変化で心が乱れる人もいる。そういう“春の矛盾”が、賢治の『春と修羅』にも通底します。

海・日差し・夕焼けなどの景色が出るときは、「出来事」ではなく「心の揺れ」を見せる装置になりやすい。景色が美しいほど、内側が荒れているのが際立つ——ヨルシカがよく使うコントラストが、ここでも効いています。


“胸が裂ける”の痛みは何を指す?(孤独・喪失・言えない本音)

“胸が裂ける”系の表現は、失恋だけでなく、もっと広い喪失に対応します。
たとえば「分かってほしかったのに分かってもらえなかった」「自分の感情を言語化できなかった」「正しさに押しつぶされた」——そういう、言葉にできない損失が胸を裂く。

ドラマが「校則」「正しさ」「大人と子どもの境界」を扱う学園ヒューマンであることを踏まえると(=理不尽や割り切れなさがテーマになりやすい)、この痛みは恋愛に限定されず、社会の中での孤独にも響きます。
“叫ぶほどでもない、でも確かに痛い”——だからこそ、あの冷たい風の怒りにつながる。


ドラマ主題歌としての「修羅」(青春/校則/大人と子どもの境界に重なる視点)

『僕達はまだその星の校則を知らない』は、学校という閉じた社会の中で、“ルールでは割り切れない感情”に向き合うタイプの作品として紹介されています。
そういう物語の主題歌が「修羅」なの、強いですよね。

校則や正しさは、ときに人を守るけど、ときに人を追い込む。
「修羅」が描くのも、まさにその 追い込まれた感情の出口のなさ です。怒りが爆発できない、だから冷たい風になる。寂しいのに忘れたいと言ってしまう。言い返したいのに「知らなかった」で受け流す。

そして公式コメントが「春と修羅」を“共通項”として、ドラマと楽曲が柔らかく交わることを願っている点も、テーマの重なりを裏付けています。


まとめ:『修羅』が伝えるメッセージ(矛盾を抱えたまま前に進むための歌)

「修羅」は、答えを出す歌というより、矛盾を矛盾のまま抱えている歌です。
忘れたいのに寂しい。怒っているのに熱くない。自分のことなのに、私・おれ・お前が混ざる。——その“まとまらなさ”自体が、人の心のリアルなんだと思います。

そして、そのリアルを支える芯が『春と修羅』のモチーフです。あの言葉が持つ“ひとりで抱える修羅”の感覚が、現代の孤独や不器用さに接続されて、「修羅」という新しい体温になった。

結局この曲は、「矛盾を消す」んじゃなくて、矛盾がある自分を見捨てないための歌。
春が来ても心が晴れない日がある。それでも風は吹く——その事実だけで、少し救われる瞬間がある。そんな一曲だと感じます。