ヨルシカの「火星人」は、聴けば聴くほど“遠い星の話”ではなく、私たちの中にある「理想(憧れ)」の話として迫ってくる一曲です。穏やかに生きたいのに、心は落ち着かない。止まりたいのに、なぜか進んでしまう——そんな矛盾を象徴するように、歌詞には「休符。」が何度も現れます。
本記事では、「火星=憧れ/理想」という視点を軸に、「火星へ/火星でランデヴー」が示す物語の段階、天体比喩(引力・月の反射)の心理、そして萩原朔太郎『猫』の本歌取りという仕掛けまで丁寧に読み解きます。アニメ『小市民シリーズ』のテーマとも響き合う「特別になりたい自意識」と「小市民でいたい願い」——その綱引きの結末に、「火星人」は何を残すのか。一緒に言葉の奥へ潜ってみましょう。
- 『火星人』はどんな曲?(リリース背景・タイアップ・まず押さえる前提)
- タイトル「火星人」が指す存在:地球にいる“僕”と、火星にいる“誰か”
- 歌詞の核は「火星=憧れ/理想」:なぜ“そこ”へ行きたくなるのか
- 「ランデヴー」の意味を分解する: “火星へ”と“火星で”が変える物語
- 冒頭の擬態語(ぴん/ぱん)が描く感覚:身体の動きと“見えてしまう”世界
- 何度も出てくる「休符。」は何の合図?──沈黙を“言葉にする”矛盾
- 「僕が見たいのは自分の中身だけ」:他者への視線が自己探求に反転する瞬間
- 「引力」「月の反射」など天体比喩の読み解き:現実に縛られる痛みと逃避
- 萩原朔太郎「猫」の本歌取り:引用が“少しずつ変形して回収される”仕掛け
- MV/概要欄から読む結論:「火星にいたのは他人」だった孤独と、着地点
- 『小市民シリーズ』と重なるテーマ:特別になりたい自意識 vs 小市民でいたい願い
- まとめ:『火星人』が残す読後感(理想への憧れ/自己対話/救いのありか)
『火星人』はどんな曲?(リリース背景・タイアップ・まず押さえる前提)
ヨルシカ「火星人」は、2025年5月9日リリースのデジタル・シングルで、TVアニメ『小市民シリーズ』第2期のオープニング・テーマとして書き下ろされた楽曲です。
作詞作曲はn-buna。公式コメントでは、この曲のキーワード(火星=憧れ/理想、引用元の詩、作詞の仕掛け)がかなり明確に語られています。まずは「火星」を“天体そのもの”と決めつけず、理想へ逃げたくなる心を描いた歌として読むのが入口になります。
タイトル「火星人」が指す存在:地球にいる“僕”と、火星にいる“誰か”
n-bunaは「火星人=火星にいる人」と言っています。ここで重要なのは、語り手(=地球側の“僕”)が、火星にいる“誰か”を見上げている構図です。
歌詞の中で“僕”は「普通の日々」「惰性の日々」に息苦しさを覚えつつ、どこかにいる“火星人(=理想の住人)”へと距離を詰めようとする。つまりタイトルは、外宇宙の異星人というより、自分の世界の外側にいる“特別”の象徴として働いています。
歌詞の核は「火星=憧れ/理想」:なぜ“そこ”へ行きたくなるのか
公式コメントで、火星は「憧れであり理想」と明言されています。
じゃあ、なぜ人は理想へ“行きたくなる”のか。歌詞に散りばめられたのは、「穏やかに生きたい」気持ちと、同時に湧き上がる**「わかってほしい」「いらいらする」**という焦燥です。
落ち着いた生活を望みながら、心は“特別な場所”に引き寄せられてしまう。この矛盾そのものが、火星=理想を成立させているんですね。
「ランデヴー」の意味を分解する: “火星へ”と“火星で”が変える物語
サビの「ランデヴー」は“会う約束”の意味だけでなく、宇宙文脈だと“接近・ドッキング”のニュアンスも持ちます。そこに助詞が乗ることで、物語が段階的に変わります。
- 「火星へランデヴー」:まずは理想へ“接近”する(近づきたい衝動)
- 「火星でランデヴー」:次に理想の地点で“会う”(到達後の対面)
さらに歌詞には「自分へランデヴー」も出てきます。ここが効いていて、結局この曲は「理想の他者へ」だけでなく、理想に触れた結果として“自分自身”と対面する話に折り返していくんです。
冒頭の擬態語(ぴん/ぱん)が描く感覚:身体の動きと“見えてしまう”世界
冒頭から「ぴん」「ぱん」と、音が跳ねるような擬態語が続きます。歌詞上でも“指先”“口の奥”と、かなり身体的な入り方です。
これは「考え」より先に「反射」で世界が迫ってくる感覚に近い。理想(火星)が、遠い憧れというより、日常の身体の反応として“見えてしまう”。だからこそ、穏やかにしたいのに落ち着けない。火星はロマンではなく、ちょっと厄介な“視界のクセ”として描かれています。
何度も出てくる「休符。」は何の合図?──沈黙を“言葉にする”矛盾
「休符。」は“休む記号”なのに、歌詞ではそれをわざわざ発声してしまう。この矛盾が曲の痛みです。
“穏やかに生きたい”と置いた直後に「休符。」が来るのは、休みたいのに休めない自意識の表れにも見えるし、“ここで止まってほしい”という合図を言葉で鳴らしているようにも見える。結果として「沈黙」ではなく「演出」になってしまう——それが、この曲の“火星へ行きたい病”のリアルさだと思います。
「僕が見たいのは自分の中身だけ」:他者への視線が自己探求に反転する瞬間
サビで「僕が見たいのは〜だけ」という言い切りが繰り返されますが、途中から欲望の対象がズレていきます。
最初は「普通」を吹き飛ばすようなものを見たい。でも次第に、「自分の中身だけ」へ収束する。
ここで起きているのは、理想(火星人)を追うほど、結局“自分は何者か”に戻ってしまうという反転です。憧れの世界に行けば救われるのではなく、憧れの強さが、自分の空洞(芯のなさ)を照らしてしまう。だから「自分へランデヴー」になる。
「引力」「月の反射」など天体比喩の読み解き:現実に縛られる痛みと逃避
「理想は引力」という言い回しが出てきます。理想って本来“自由”のはずなのに、ここでは逆に身体を縛る重力として働く。
さらに「苦しさが月の反射だったらいい」という願いは、苦しみを“自分の内側”に置きたくない気持ちに読めます。月光は自ら光らず、反射で光る。つまり「この痛みが自分由来じゃなく、どこかの反射なら楽なのに」という逃避です。
火星へ行きたいのは、遠くへ逃げたいからというより、痛みの所在をずらしたいから——そんな心理の比喩が天体言語で組まれています。
萩原朔太郎「猫」の本歌取り:引用が“少しずつ変形して回収される”仕掛け
n-bunaは、萩原朔太郎「猫」の一節を本歌取りの感覚で引用し、少しずつ形を変えて繰り返し、最後に原典が出てくる構造だと説明しています。
実際、歌詞の終盤に“原典の文語”がそのまま現れます。ここが“火星に到着した瞬間”です。
つまりこの曲の火星は「どこかの惑星」ではなく、作者が憧れてきた言葉(詩)そのもの。そして火星人は、その言葉の世界に住んでしまえる人=“本物の詩の住人”。そんな二重の意味が成立します。
MV/概要欄から読む結論:「火星にいたのは他人」だった孤独と、着地点
MVはn-bunaが原案・監督・アニメーションに参加したことが報じられていて、映像でも“火星人”のイメージが補強されます。
制作側の紹介では、火星人たちが多種多様な言語で遊ぶ様子が描かれるとされています。
ここから逆算すると、この曲の着地点はわりと残酷です。
火星(理想)に近づいた先にいたのは“運命の誰か”というより、自分ではない他人の言葉・他人の才能。だからこそ「僕が見てるのは言葉の光だけ」になる。火星へ行くことは救いではなく、孤独の輪郭をくっきりさせる行為でもあるんです。
『小市民シリーズ』と重なるテーマ:特別になりたい自意識 vs 小市民でいたい願い
n-bunaは『小市民シリーズ』について、「小市民的に生きたいと言うけれど、自意識の高さを捨てられない」ことが魅力であり“引力”だと語っています。
これ、歌詞の「穏やかに生きたい(=小市民でいたい)」と、「休符。」「いらいらする」「火星へ」という衝動(=特別でいたい)が、そのまま重なります。
作品側のテーマを借りつつ、曲はもっと普遍的な“自意識の二枚舌”を鳴らしている。だからアニメ視聴者じゃなくても刺さるんだと思います。
まとめ:『火星人』が残す読後感(理想への憧れ/自己対話/救いのありか)
『火星人』は「理想へ行きたい歌」だけど、同時に「理想へ行くほど、他人の言葉と自分の空洞が見える歌」でもあります。
本歌取りで原典に“到着”する構造が、そのまま物語になっているのが見事で、最後に残るのは達成感というより、憧れと焦燥が同居したままの余韻。
救いがあるとしたら、「ランタンも鏡もいらない」という断言の側。
理想へ行く道具は現実の装備じゃなく、結局“言葉”しかない。だからこそ、今日も火星が見えてしまう人は、歌いながら火星へ向かうしかない——そんな、静かな覚悟の曲だと受け取りました。


