椎名林檎「映日紅の花」は、いわゆる代表曲とは少し違う、“知る人ぞ知る”位置づけの楽曲ですが、刺さる人にはとことん刺さる一曲です。
ふわりとしたギターと、静かで柔らかな歌声。その奥に、妊娠・喪失・輪廻(生まれ変わり)といった、すごく重たいテーマが潜んでいる──そんなギャップが、この曲の忘れがたさを生んでいるように思います。
この記事では「椎名林檎 映日紅の花 歌詞 意味」で検索してきた方に向けて、
- タイトル「映日紅の花」に込められた意味
- 歌詞全体が語る“生と死”“母と子”の物語
- アルバム『加爾基 精液 栗ノ花』や「葬列」とのつながり
- MV(PV)やサウンド面から見える解釈
まで、順番に整理しながら、私なりの考察を書いていきます。
- 「映日紅の花」とは?楽曲の基本情報と作品全体の位置づけ
- タイトル「映日紅(いちじく)の花」の意味とは──“花のない果実”が象徴するもの
- 歌詞の意味をざっくり解説──『葬列』の“続編”として描かれる生と死の物語
- Aメロ歌詞解釈①「もしもし そろそろ逢ひたいな」電話の相手と“彼の子”は誰なのか
- Aメロ歌詞解釈②「庭には 花菱草」季節・庭の描写に込められた時間軸と妊娠の暗喩
- サビ歌詞解釈「実の無い花」「花の咲かない実」が示す妊娠・死産・輪廻のイメージ
- Cメロ〜ラスト歌詞解釈「哀しみ携えし子よ 眠れ」母性と別れ、救済のニュアンス
- MV(PV)考察──プライベートビデオ風映像と“擬似デート”に隠された物語性
- アルバム『加爾基 精液 栗ノ花』との関係性──「宗教」「葬列」から続く輪廻の構図
- 作曲・浮雲(長岡亮介)のサウンドが描く「静けさと不穏さ」歌詞解釈とのリンク
- 「映日紅の花」が私たちに伝えるメッセージ──喪失を抱えて生きることへの優しい視線
「映日紅の花」とは?楽曲の基本情報と作品全体の位置づけ
「映日紅の花」は、椎名林檎がデビュー5周年を迎えたタイミングで制作された楽曲です。ライブDVD『賣笑エクスタシー』に付属する“御宝コンパクトディスク”のための新曲として発表され、その後ベスト盤『私と放電』などにも収録されています。
- 作詞:椎名林檎
- 作曲・編曲:浮雲(長岡亮介)
- 再生時間:約4分半のミディアム・バラード
サウンド的には、透き通るようなギターのアルペジオと、淡々としたリズムが印象的。音楽配信サイトの解説では「お腹の中の我が子に対する複雑な想いを綴ったナンバー」と紹介されており、公式にも“母と子”がテーマであることが示唆されています。
さらに重要なのは、この曲がアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』のアナログ盤では、ラスト曲「葬列」の後に置かれていること。椎名林檎本人もインタビューで「『葬列』の続きになるものにしようと思って書いた」と語っており、『加爾基~』の世界観に対する“追記”として構想された曲だと分かります。
つまり「映日紅の花」は、単なるバラードではなく──
『加爾基 精液 栗ノ花』という、生と死をめぐる物語世界のエピローグ的な位置づけの曲なのです。
タイトル「映日紅(いちじく)の花」の意味とは──“花のない果実”が象徴するもの
まずタイトルから。読みは「映日紅の花(いちじくのはな)」です。カラオケや歌詞サイトでも、ふりがなは「いちじくのはな」と明記されています。
ポイントは「映日紅」という表記。
- いちじくは、一般的には「無花果」または「映日果」と書きます。
- どちらも“いちじく”を表す難読漢字で、「映日果」はペルシャ語由来の当て字とされています。
- いちじくは実の内側に無数の花が咲いていて、外からは花が見えないため「無花果」と書かれる、というエピソードも有名です。
ここに、椎名林檎はあえて「果」ではなく「紅」の字を組み合わせ、「映日紅」という造語的な表記にしています。
- “映日” … 太陽の光に照らされる様子
- “紅” … 血の色、熟した果実の色、女/肉体を連想させる色
つまり「映日紅」は、太陽に照らされて鮮やかに赤く輝く、いちじくのような実を連想させます。
そして「いちじく」は、“外からは見えない花を、内側に抱えている果実”。
この組み合わせは、そのまま**“お腹の内側で、誰にも見えないところで育っている命=胎児”**のメタファーと読むことができます。
さらに、歌詞には後半で
「実の無い花」
「花の咲かない実」
といったフレーズも登場します。
“実のない花”と“花の咲かない実”という、矛盾したような二つの存在。タイトルの「映日紅の花」とも響き合いながら、**“見えるもの/見えないもの”“実る命/実らない命”**を対比するためのキーワードとして機能しているように思えます。
歌詞の意味をざっくり解説──『葬列』の“続編”として描かれる生と死の物語
歌詞全体をざっくりまとめると、こんな物語が浮かび上がってきます。
- 語り手は「お腹に子どもを宿した女性」
- 季節が移り変わる庭を眺めながら、電話で誰かとやり取りをしている
- 童歌「かごめかごめ」のフレーズを思わせる言葉が繰り返され、何かの“誕生”や“出現”を待っている
- サビでは「実の無い花」と「花の咲かない実」が対比され、“母になる/ならない”女性像や、生まれてこられた/こられなかった命が描かれる
- ラストで「膨らんでゆく衣をまとったこの子」と「哀しみを携えた子」に対し、「眠れ」と語りかける
レコチョクなどの公式解説が「お腹の中の我が子に対する複雑な想い」と述べているように、曲の表層は“妊娠した女性と胎児”の歌として読めます。
一方で、解釈サイトやファンの間では、
- 妊娠と死産(あるいは中絶)を描いた歌
- 『加爾基 精液 栗ノ花』ラスト曲「葬列」で葬られた命が、別の形で再び宿る“輪廻”の物語
といった読みも広く共有されています。
椎名林檎自身が、「葬列」の“続き”としてこの曲を書いたと話していることを踏まえると、
死を描いた「葬列」の、その先にある“妊娠”という出来事
しかしそれは、喜びだけではなく、喪失や罪悪感も引き受けざるを得ない出来事
として、「映日紅の花」が意図的に配置されている、と考えるのが自然です。
Aメロ歌詞解釈①「もしもし そろそろ逢ひたいな」電話の相手と“彼の子”は誰なのか
曲は、電話の呼びかけから始まります。
「もしもし そろそろ逢ひたいな」
という、少し甘えたような一言。
この直後に、庭の描写と「花菱草」という具体的な花の名前が出てくることで、場面がぐっと立体的になります。
さらに、童歌「かごめかごめ」を連想させる
- 「何時何時 出やる」
- 「後ろの正面」
といったフレーズが続き、最後は
「彼の子はまだだよと」
で締めくくられる。
ここで登場する“彼の子”は、
- お腹の中にいる胎児
- まだこの世に“出てきていない”魂
- あるいは「葬列」で死んだ誰かの生まれ変わり
など、複数の読みが可能です。
私は、「電話の相手=医師や看護師」「“彼”=子どもの父親」という現実的な読みと、“あの世側の誰か”に問い合わせているような、スピリチュアルな読みの両方を意識させる書き方なのだと感じます。
- 「そろそろ逢いたい」… 出産予定日が近づく期待
- 「まだだよ」と告げられる … 命がまだ“こちら側”に来ていない不安
“かごめかごめ”的な言い回しは、子どもの遊び歌の無邪気さと、どこか不気味な雰囲気を同時に呼び起こし、
「生まれてくる命を待つ喜び」と「本当に無事に生まれてきてくれるのか」という怖さを、一つのシーンの中で揺らがせています。
Aメロ歌詞解釈②「庭には 花菱草」季節・庭の描写に込められた時間軸と妊娠の暗喩
1番と2番のAメロでは、庭の情景が少しずつ変化していきます。
- 最初は「花菱草」が咲く庭
- 次の電話では「庭には夏が帰りそう」と、季節が進んでいる
この“庭の変化”は、そのまま妊娠期間の経過を示しているように読めます。
妊娠は、基本的に約10か月という長い時間の営みです。
そのあいだに、庭の花も季節も変わる。
電話の向こうの“誰か”に近況を尋ねたり報告しながら、淡々と日々を過ごしていく──そんな現実感があります。
一方で、「何時何時 出やる」というフレーズが繰り返されることで、
「いつ出てくるの?」
「その瞬間が来るのは、いつ?」
という焦燥もまた強調されます。
2番の終わりに出てくる
「彼の子に舞う良いかいと」
という一節(古語の「舞う」を連想させる表記)は、
- “生まれてくる子のために踊る”
- “この子のために人生を捧げて良いか”
といった意味合いにも読めて、
語り手が自分の生き方や身体を差し出す覚悟を、相手に確かめているようにも感じられます。
サビ歌詞解釈「実の無い花」「花の咲かない実」が示す妊娠・死産・輪廻のイメージ
サビの核になっているのが、次の二つのフレーズです。
「実の無い花は 枯れても永遠に愛でらるる 無実の罪」
「花の咲かない実は 朽ち永遠に忘らるる 無骨な罰」
(※1行ごとに抜粋)
ここには、とても残酷で、美しい対比が描かれています。
① 実の無い花 = 子どもを持たない女性
“実の無い花”は、
- 妊娠・出産を経験していない女性
- あるいは、子どもを持たない人生を選んだ人
の象徴として読めます。
枯れても“永遠に愛でられる”というのは、
いつまでも「消費される美しさ」「若々しさ」を求められ続ける、という皮肉にも思えます。
“無実の罪”という言葉が添えられているのも印象的で、
子どもを産んでいないことは、本来“罪”ではない。
それなのに、どこか後ろめたく感じさせられてしまう社会の視線。
を浮かび上がらせます。
② 花の咲かない実 = 妊娠した女性/生まれてこられなかった子
一方“花の咲かない実”は、
- すでに妊娠している(実がある)のに、その花が見えない
- もしくは、妊娠したけれど、出産に至らなかった命
を象徴しているように見えます。
“朽ちて永遠に忘れられる”“無骨な罰”という言葉は、
- 流産・死産・中絶といった形で、この世に出てこられなかった命
- あるいは、その経験を抱えた母親自身が追うことになる“沈黙の痛み”
を示しているのかもしれません。
③ 「実の無い花」と「花の咲かない実」のどちらも、責められるべきではない
重要なのは、どちらの存在も、
本来は罪でも罰でもないはずのものであるという点です。
- 子どもを持たない/持てない生
- 子どもを授かったが、無事に生まれなかった生
どちらも“あるがままの人生”でしかないのに、社会や自分自身の意識の中で、いつの間にか「罪」と「罰」の枠にはめられてしまう。
サビは、その理不尽さと痛みを、詩的な比喩で浮かび上がらせているように感じられます。
Cメロ〜ラスト歌詞解釈「哀しみ携えし子よ 眠れ」母性と別れ、救済のニュアンス
終盤では、視点がぐっと“この子”へ近づきます。
「膨らんでゆく衣 まといしこの子は誰?」
「妙に甘く鮮やかな実」
「嗚呼 哀しみ携えし子よ 眠れ」
(※部分的に抜粋)
ここで語り手は、お腹の中の子どもを「妙に甘く鮮やかな実」と形容しながら、「哀しみを携えた子」と呼びかけています。
“哀しみを携えた子”という言い方は、
- この子が、すでに何らかの悲しみを背負ってこの世に来ようとしている
- あるいは、この子の存在そのものが、語り手にとって「過去の喪失」と結びついた複雑な感情を呼び起こしている
という、二重の意味を感じさせます。
ラストの「眠れ」は、
- 文字通り、胎内の子への“子守歌”
- そして、もしこの命がこの世に長く留まることができなかったとしても、「どうか安らかに」という鎮魂の祈り
の両方を孕んでいるようです。
ここまでを踏まえると、
「映日紅の花」は“出産の喜び”を歌った曲というより、喪失を抱えたまま、それでも命を迎え入れようとする母の歌として読むのが自然に感じられます。
MV(PV)考察──プライベートビデオ風映像と“擬似デート”に隠された物語性
「映日紅の花」のMVは、いわゆる“作品然としたPV”というよりプライベートビデオ風の映像で構成されています。
- カメラはほぼ一貫して“相手の視点”
- 椎名林檎と一緒に、横浜・横須賀あたりをドライブし、デートをしているような映像
- ラフな服装やメイクで、素の表情に近い林檎が映る
といった構成で、本人もインタビューで「こういうクリップって作ってないよね」「横浜や横須賀に行けて良かった」と語っています。
この“相手視点”のカメラは、そのまま
- 語り手の恋人=子どもの父親
- あるいは、これから生まれてくる“子どもの視点”
としても読むことができます。
- 何気ないデート風景
- 笑ったり、手を振ったりする林檎
- ときどき半透明のような、現実感の薄い映像処理
などが、歌詞に潜む“生と死”のモチーフと重なって、
「今ここにある幸せな時間」が、いつか失われることを予感させる
どこか儚い空気を作り出しています。
ファンの間では、「林檎さんと擬似生活・擬似デートしているようで最高」という声もありつつ、同時に**“幽霊のようにも見える”**という感想も多く、“生者と死者の境界”を曖昧にする仕掛けとしても機能していると言えるでしょう。
アルバム『加爾基 精液 栗ノ花』との関係性──「宗教」「葬列」から続く輪廻の構図
『加爾基 精液 栗ノ花』は、1曲目「宗教」からラスト「葬列」まで、生と死・性愛・家族といったテーマを重く濃密に描いたコンセプチュアルなアルバムです。
- 1曲目「宗教」
- ラスト「葬列」
という構成自体が“円環=輪廻”を意識したものだと、本人も語っています。そのうえで「映日紅の花」について、
「『葬列』の続きになるものにしようと思って書いた」
「“そういう輪廻もあるけれど、こういう輪廻もあるよね”という感じ」
と説明しているのが、とても象徴的です。
つまり、
- 『加爾基~』本編で描かれた生と死の円環
- その外側に、もう一つの小さな輪廻として“母と子の物語”を付け足したのが「映日紅の花」
と捉えることができます。
“葬列”という“終わり”の後に、“妊娠”という“始まり”が置かれることで、
誰かの死は、別の誰かの生の始まりとつながっている
という、静かな輪廻のイメージが浮かび上がる。
その意味で、**「映日紅の花」は『加爾基~』世界の“アフターストーリー”**であり、アルバムの余韻をさらに深くする、重要な1曲だと言えます。
作曲・浮雲(長岡亮介)のサウンドが描く「静けさと不穏さ」歌詞解釈とのリンク
この曲の作曲・編曲を担当しているのは、ギタリストとしてもおなじみの浮雲(長岡亮介)。
サウンド面だけ見ても、歌詞世界とのリンクが非常に巧妙です。
- 透き通るギターのアルペジオ
→ 羊水の中をゆらゆら漂うような、浮遊感と包まれる感じ - 抑制されたリズムと淡々とした進行
→ 日々の生活の単調さ、妊娠期間の長い時間 - 所々で覗く不協和音や、メロディの“落ち方”
→ 喜び一色にはならない、不安や暗い影
特にサビに入る瞬間、コード進行にわずかな“きしみ”のようなニュアンスが入ることで、
「実の無い花」「花の咲かない実」
という言葉の持つ残酷さが、音だけでも伝わってくる作りになっています。
歌詞の直接的な説明に頼らず、サウンドそのものが“喜びと不穏さの同居”を描いている点も、「映日紅の花」を奥行きのある楽曲にしているポイントと言えるでしょう。
「映日紅の花」が私たちに伝えるメッセージ──喪失を抱えて生きることへの優しい視線
最後に、「椎名林檎 映日紅の花 歌詞 意味」というキーワードでこの記事に辿り着いた方へ向けて、この曲が投げかけてくるメッセージを、私なりにまとめてみます。
- 人は皆、「実の無い花」である時期と、「花の咲かない実」である瞬間を、どこかで経験している
- 子どもを持つ/持たない、持てた/持てなかったという分断を越えて、誰もが“罪”や“罰”ではないはずのものを、どこか後ろめたく抱えながら生きている
- それでも、お腹に宿った命を「妙に甘く鮮やかな実」と呼び、「哀しみ携えし子よ 眠れ」と抱きしめるように、喪失とともに生きることは可能だ
「映日紅の花」は、そうした説明しきれない“複雑な感情”そのものを、詩と音で丸ごと封じ込めた歌だと感じます。
聴く人の状況や経験によって、
- ただの切ない恋の歌にも
- 妊娠と死産の物語にも
- 『加爾基~』の輪廻を締めくくるスピンオフにも
なり得る、多面体のような楽曲です。
あなたは、この曲の「実の無い花」と「花の咲かない実」をどう受け取ったでしょうか。
ぜひ、あなた自身の解釈も心の中で言葉にしながら、もう一度「映日紅の花」を聴き直してみてください。きっと、最初に聴いたときとは少し違う風景が、音の向こう側に見えてくるはずです。


