【陽炎/フジファブリック】歌詞の意味を考察、解釈する。

今回はフジファブリックの楽曲について解説していきます。
フジファブリックの四季シリーズは、春夏秋冬をテーマにした楽曲群で、その中でも2曲目は夏をテーマにした楽曲です。
この曲は1stアルバム「フジファブリック」に収録されており、タイトルは「陽炎」です。
作詞は志村正彦さんが手がけています。
内容について詳しく見ていきましょう。


この楽曲の歌詞では、「陽炎」という言葉が歌詞全体にさまざまな形で影響を与え、同時に実際の陽炎現象とも結びついています。
この点において、非常に緻密に作り込まれた作品と言えるでしょう。

解説に入る前に、まず「陽炎」の意味を理解しましょう。
古語辞典によれば、

春の晴れて直射日光の強い日などに、地面からゆらめいてのぼる気。あるかないかわからないもの、はかなく消えやすいもののたとえに用いられることが多い。

デジタル大辞泉によると、

春の天気のよい穏やかな日に、地面から炎のような揺らめきが立ちのぼる現象。強い日射で地面が熱せられて不規則な上昇気流を生じ、密度の異なる空気が入りまじるため、通過する光が不規則に屈折して起こる。

皆さんも夏の日差しの下で、地面から揺らめく様子を見たことがあるかもしれません。
これがこの曲のテーマとなっています。
では、どのようにこのテーマが表現されているのか、詳しく見ていきましょう。


あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ

また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像
が 胸を締めつける

マーカーをした部分、まさに陽炎のようですね。
「陽炎のように、突然浮かんだ過去の自分の姿。それが連鎖的に過去の思い出を引き起こし、次から次へと甦ってきて、そのひとつひとつが心を締め付けていく様子」といった感じでしょうか。
このような表現が陽炎にリンクしているのが面白いですね。

隣のノッポに 借りたバットと
駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう
さんざん悩んで 時間が経ったら
雲行きが変わって ポツリと降ってくる
肩落として帰った

この部分、過去の自分の姿が補完されていくと感じています。
これが次のセクション(サビ)へとつながっていくプロセスです。

窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

気持ちを落としてしまい、帰ってしまった人物が、天気の変化とともに再び外へ飛び出していく描写が繰り広げられていますが、ここで注目すべきなのは、二度繰り返される次のフレーズです。
「~陽炎が揺れてる~」という部分です。
これは単に強調のために繰り返されているとも思えますが、私はここに2つの異なる陽炎の意味を感じました。
一つは、過去や現在の自分の前に広がる現象としての陽炎。
もう一つは、Bメロからサビにかけて漂うように浮かんでくる思い出の陽炎のようなものです。
これらの解釈は、考え過ぎとは言えないのではないかと思います。

きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける

この楽曲「陽炎」において、メディアで注目されている部分です。
ここではさまざまな解釈が可能です。
私は以下のような解釈をしました。

「きっと今では(子ども時代の思い出や、大切な人々との経験など)失われたものも多いでしょう。しかし、おそらくそれでもあの人(思い出の友人や恋人)は変わらず過ごしているのでしょう。そう考えるうちに、陽炎のようにぼんやりとした出来事(苦しみも楽しみもあった青春の思い出)が次から次へと心を締め付けていくのです。」

こう考えると、「きっと今では」から「変わらず過ごしているだろう」までの部分も、「~だろう」という表現から、特定のことを言及せず、陽炎のようにぼんやりとしたイメージが広がっているように感じられます。
志村氏は、「茜色の夕日」などでも同様に世界観を巧みに構築していますね。

総括すれば、この楽曲は夏の現象である陽炎のように、主人公(=志村氏)の記憶とそれに伴う感情が揺れ動いている様子を描いた作品と言えます。
非常に興味深い解釈ができる楽曲であると思います。

最後に、志村氏の特徴的な側面を紹介いたします。

隣のノッポに 借りたバットと
駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう

こちらも「茜色の夕日」と同様、物事の大きさの対比や強調が巧みに描かれていると思われます。
志村氏は、このような手法を好んでいるのかもしれません。
皆様はどのようにこの要素を解釈されるでしょうか。