『然らば/マカロニえんぴつ』歌詞の意味を深読み考察|届かない恋と咲き遅れの心情とは?

「捨てようとする心」と「また拾い戻す未練」の葛藤

マカロニえんぴつの「然らば」は、失恋を題材にした楽曲ですが、ただの悲しい別れでは終わりません。歌詞の冒頭から「捨てよう 捨てよう」と自らに言い聞かせるようなフレーズが繰り返されます。しかし同時に、その後には「なのに また拾い戻してる」という矛盾する行動が描かれています。

これは「終わらせたいけれど、終われない」感情の迷いそのものです。理性は前に進もうとしても、感情がまだその人に引き寄せられてしまう——このもどかしさは、誰しもが一度は経験する未練のリアリティを強く感じさせます。

こうした描写は、マカロニえんぴつらしい「等身大の心情表現」であり、シンプルな言葉に込められた揺らぎが、リスナーの共感を呼んでいます。


“実らない恋”と呼びつつ変わらぬ“情けない愛”の矛盾

「実らない恋」——それはこの曲の核でもあります。歌詞中で「情けない愛だ」と自嘲するような言い回しが繰り返されますが、そこには単なる否定ではなく、“なおもそこにある感情”への認知が滲んでいます。

恋が終わったあとも、相手を思い出したり、無意識に名前を探してしまう瞬間は、誰にでもあるものです。それは必ずしも「未練がましい」という否定的な意味ではなく、「確かに愛していた」という証明でもあるでしょう。

歌詞の中では、自分を責めるようでいて、それでも相手への思いを否定しきれない——その矛盾が「情けない愛」という言葉に凝縮されています。これは、恋を「失敗」や「後悔」だけで片付けず、複雑なまま抱えていくことを肯定する姿勢とも言えます。


「咲き遅れのシンビジウム」に込められた心象の意味

歌詞に登場する「咲き遅れのシンビジウム」は、この楽曲の象徴的なフレーズのひとつです。シンビジウムは冬に咲く蘭の一種で、華やかさと同時に「控えめな美しさ」や「遅咲きの愛情」といった花言葉を持ちます。

このフレーズは、主人公が「やっと自分の本当の気持ちに気づいた」とも読み取れます。恋が終わってから、本当の大切さを知る——そんな切なさが詩的に表現されています。

また、“咲き遅れ”という言葉には、恋愛におけるタイミングのすれ違いも示唆されています。相手の心が離れたあとに、ようやく芽生えた強い想い。そこにあるのは、間に合わなかった悔しさと、それでも花を咲かせようとする儚い希望です。


アウトロ「千の夏と蒼、蝶になった嘘」が描く青春の残響

曲の終盤に登場する「千の夏と蒼、蝶になった嘘」という一節は非常に象徴的です。一見すると抽象的なフレーズですが、“夏と蒼”は青春の象徴、“蝶”は変化や昇華、“嘘”は過去の未練や偽りの記憶として読むことができます。

つまりこの一節は、過去の思い出や後悔、届かなかった言葉が、時を経て「美しい記憶」へと変わっていく過程を示しているのです。

蝶は芋虫から羽化する生き物であり、「苦しみや未練が、やがて誰かの中で美しいものへと姿を変える」可能性を秘めています。そう考えると、この楽曲はただの失恋ソングではなく、“失ったものを肯定し、昇華していく”過程そのものを描いているとも言えるでしょう。


誰も悪くない恋――失恋を肯定する視点

「然らば」の特徴のひとつは、「誰かが悪いわけじゃない」という視点です。多くの失恋ソングでは、「相手の裏切り」や「自分の不甲斐なさ」が原因として描かれることが多いですが、この曲では“ただ、うまくいかなかった”という淡くてやるせない現実が中心にあります。

恋愛とは理屈では測れない感情のやりとりであり、うまくいかなかったからといって、必ずしも誰かが悪いわけではありません。その事実を受け入れ、愛したこと自体を否定しない姿勢こそが、この曲の根底にある優しさです。

だからこそ「然らば」という言葉が効果的です。“さらば”ではなく“然らば”と書くことで、「そういうことならば」という理性的な受容を感じさせ、終わりに対する穏やかな肯定が滲みます。