【かつて天才だった俺たちへ/Creepy Nuts】歌詞(リリック)の意味を考察、解釈する。

この回では、Creepy Nuts(クリーピーナッツ)の楽曲「かつて天才だった俺たちへ」について考察してみましょう。
この曲は、大学とのコラボレーションによるもので、進路に悩んでいる若者や挫折を経験した人々に、励ましのメッセージを送っています。

次第に大人たちの評価を気にし始める

苦手だとか 怖いとか 気づかなければ
俺だってボールと友達になれた
頭が悪いとか 思わなけりゃ
きっとフェルマーの定理すら解けた
すれ違ったマサヤに笑われなけりゃ
ずっとコマつきのチャリをこいでた
力が弱いとか 鈍臭いとか 知らなきゃ
俺が地球を守ってた
破り捨てたあの落書きや
似合わないと言われた髪型
うろ覚えの下手くそな歌が
世界を変えたかも

この部分は歌詞通り、若い頃に体験した多くの挫折に関する記述ですね。

フェルマーの定理は、フェルマー氏が提唱した未解決の数学の謎の一部であり、その最も注目すべき部分です。
この最終定理は、数式で表すと「xn + yn = zn(n≧3)となる自然数の組(x,y,z)は存在しない」という内容です。
しかし、長い間、この定理がなぜ成り立つのか、その証明は存在しませんでした(ただし、現在は証明がされています)。

フェルマーさんは生前に特定の本のページにこの定理を記しており、しかしその定理の証明にはその本の余白が不足していたという記録が残っています。
この事実がきっかけとなり、多くの数学者たちが証明に挑戦し、懸賞金も設定され、実際に証明しようと志す数学者が数多く現れました。

「ずっとコマつきのチャリをこいでた」の「コマ」は、補助輪のことを指しています。

「破り捨てたあの落書き」は、失敗というよりも、自身の可能性を放棄してしまったことに対する後悔を表現しています。
「うろ覚えの下手くそな歌が世界を変えたかも」も同様に、成功の可能性を見逃してしまったことへの後悔を示しています。

かつて天才だった俺たちへ
神童だった貴方へ
似たような形に整えられて
見る影もない

「神童だった貴方へ」という表現は、「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」ということわざに由来しています。
このことわざは、子供のうちに優れた才能を持っていても、年齢を重ねるにつれてその才能が薄れてしまうことを意味しています。
つまり、このことわざは、大人たちが若い才能を妬んで摘み取ろうとすることへの批判を含んでいます。

これが「似たような形に整えられて見る影もない」という歌詞と関連しており、若い才能が個性を奪われてしまう現象を表現しています。

「似たような形に整えられて見る影もない」という部分の要点は、これまでは周囲の友人や仲間の評価に敏感だったけれども、次第に大人たちの評価を気にし始める変化を示しています。

再び勇気を与えてくれる

いまだかつて
ないほど入り組んだway
悩めるだけ悩め
時が来たらかませ
風まかせ
どっちみちいばらのway
俺らは大器晩成
時が来たらかませ
I wanna be a 勝者
I wanna be a 強者
まだ見ぬ高みへ駆け込み乗車
花火のような 運命だろうが
わが身果てるまでやきれそうya

サビの部分は、考えるまでもなく、聴いた人々が個々に力をもらう歌詞ですね。

「俺らは大器晩成」という部分は、この曲を聴いた人々にとって、まさに救いのような感情を呼び起こす言葉です。
私たちが迷っていたり弱気になっているときに、自身の判断が正しいことを確信させ、未来に向かって新たな可能性を見出す活力を与えてくれるのです。

「I wanna be a 勝者 I wanna be a 強者」という部分、通常は「want to」を使って表現されることが一般的ですが、英語圏では「wanna」を用いることで感情や意志がより強く表現されると言われています。
言い換えると、「私は勝者になりたい」という訳よりも、「私が勝者になってやる」という訳が、英文の意味を正確に表現するものと言えます。
この強烈な表現は、私たちに再び勇気を与えてくれる要素となっています。

私たちには多くの余白が与えられている

生まれてこの方
一体いくつ分岐点を見過ごして来たんだろうか?
墓場に入るまで
後一体いくつ可能性の芽を摘んでしまうだろうか?
稀代のうつけ者 or 天下人
or 今まだ醜いアヒルの子
ほらどうぞご指導ご鞭撻の程
渡る世間の洗礼を浴びるとこ
俺はキャンパス かなり薄汚れた
だけどワンチャンス まだ余白はあるさ
ちゃっかり目立ったり劣ったり
この隔たりよ永遠に

これまでの歌詞に含まれていた「自分なんて…」という感情から、自己啓発的な表現に切り替えています。
この変化により、聴く者は心に響く、耳に残る歌詞を楽しむことができます。
サビの後にこれらの自己問いが登場することで、厳格さと同時に優しさを感じます。

もし自問自答が曲の冒頭にあった場合、曲が説教的に聞こえる可能性が高くなるかもしれません。
しかし、サビでの力強いメッセージの後に現れることで、説教的な印象を避けつつ、サビで湧いたやる気を更に高めてくれるのです。

「稀代のうつけ者 or 天下人」という表現は、織田信長が「うつけ」と呼ばれることで広く知られていたことを指し示しており、同時に「今まだ醜いアヒルの子」という部分は、童話『アヒルの子』に言及しています。
これらの例は、大器晩成の代表的な事例として捉えられることでしょう。

「まだ余白はあるさ」という部分で、フェルマーの最終定理に対する伏線が回収されます。
当時、フェルマーはその定理の証明に必要な余白を持っていなかったかもしれませんが、私たちには時間と無限の可能性という多くの余白が与えられています。
個々の人が、フェルマーをも超える力を秘めている可能性があるのですね。

私たちは様々な形に変化し続けることができる

お前は未だに広がり続ける銀河
孫の代までずっとフレッシュマン
粗探しが得意なお国柄
シカとでかまそうぜ金輪際
俺も未だに広がり続ける銀河
今際の際までずっとフレッシュマン
くたばり損ねて冥土からcome back
草葉の陰からゴンフィンガー

「粗探しが得意なお国柄 シカとでかまそうぜ金輪際」という歌詞は、日本人の性格を的確に表現しており、同時に団結して未来を切り拓こうとするメッセージが感じられます。

「お前は未だに広がり続ける銀河 孫の代までずっとフレッシュマン」
「俺も未だに広がり続ける銀河 今際の際までずっとフレッシュマン」
「フレッシュマン」とは新しく参加した人や新人を指します。
ここでは未来に向けた可能性を指しているでしょう。
また、「今際の際」とは死の瞬間を指します。

つまり、どこまで行っても私たちは絶えず無限の可能性を抱えており、その可能性を実現するためにも周囲の批判や評価には屈しない覚悟を持つべきだと解釈できます。

「くたばり損ねて冥土からcome back 草葉の陰からゴンフィンガ—」
「冥土」、「草葉の陰」はいずれもあの世や墓の下を指します。
そして「ゴンフィンガ—」とは音楽イベントなどで使われる、興奮や称賛の意味を込めたジェスチャーです。

もしも、彼らがいなくなったとしても、私たちの近くには彼らの遺した言葉が残り、彼らは私たちに「草葉の陰からゴンフィンガー」を送り続けてくれることでしょう。

無傷のままじゃいられない
変わり続けてく多面体
その物差しじゃ測れない
測らせる気もない

「無傷のままじゃいられない 変わり続けてく多面体」
もちろん、一歩前に進むと、批判の声にさらされて無傷のままではいられないことがあります。
しかし、同時に私たちは様々な形に変化し続けることができます。

「その物差しじゃ測れない 測らせる気もない」
この歌詞には、彼らが伝えたいメッセージが詰まっていると考えられます。
私たちが前進し、成長する姿は、前進できない人々が持つ価値観や物差しでは評価できるものではなく、私たちはそのような評価を求めていません。