松任谷由実が描く世界には、日常の情景を通して人生の深い真実がそっと織り込まれています。2001年リリースの楽曲「経る時」は、タイトルからして時間の流れを意識させる作品ですが、その歌詞には「時の経過」がもたらす感情の揺らぎや、人の記憶の儚さ、そしてそれを超える普遍的な優しさが詰まっています。
本記事では、歌詞の持つ意味や背景、象徴表現について多角的に考察していきます。
「経る時」というタイトルに込められた意味と掛詞(かけことば)
「経る時」というタイトルは一見シンプルですが、そこには日本語特有の深い意味が込められています。
- 「経る(へる)」は「時間が過ぎる」こと、「経験する」ことの両方の意味を持つ。
- 「時を経る」は、ただ時間が流れるのではなく、感情や記憶、人生の局面を「乗り越えてきた」という含意もある。
- また、「経る」は仏教用語として「経典を読む」などの意味もあり、精神的な深化や悟りの暗示にも取れる。
このように、単なる時間の通過ではなく、感情や人生の深層に関わる「経る時」として解釈できるのがこのタイトルの奥深さです。
桜・砂時計・ホテル…詩に描かれた情景とその象徴性
歌詞には印象的なモチーフが次々と現れますが、それぞれに深い象徴性があります。
- 桜:日本人にとっての「別れ」や「儚さ」の象徴。ここでは、恋の終わりや記憶の淡さを示す。
- 砂時計:時間が「見える形」で過ぎていく道具。決して逆戻りしない、不可逆的な「時間の消費」を象徴。
- ホテルのロビー:移動と一時の滞在、出会いと別れの交差点。関係の儚さ、過去との対比が浮かび上がる。
- 水路:流れるもの、変わり続けるものの象徴。静かで美しいが、戻らないもののメタファー。
これらの描写が歌詞に詩的な厚みを与えており、単なる「恋の思い出」ではなく、人生そのものの通過儀礼を示しているようです。
“あんなに強く愛した気持も 憎んだことも今は昔”―時間の経過と感情の変容
この一節に代表されるように、「経る時」では感情の「変化」ではなく「変容」が主題となっています。
- 「強く愛した」「憎んだ」という対極の感情が「今は昔」と一括りにされる。
- 時間が持つ癒しの力、あるいは「すべてを風化させる」残酷さ。
- 過去を美化するのではなく、「それもあった」と受け入れる視点が、成熟した語り手の姿勢を感じさせる。
松任谷由実は、感情を過去のものとして語ることで「生きていくこと」と「忘れていくこと」のバランスを描いています。
老夫婦、ティールーム、水路…登場人物と場の持つ物語性
後半の歌詞に登場する「老夫婦」「ティールーム」「水路」は、物語の時間軸をさらに進める装置として機能しています。
- 老夫婦:未来の自分たち、あるいはかつての理想像。過去と未来が交差する象徴的存在。
- ティールーム:日常の中の静けさと温もり、そこにある「変わらないもの」への憧れ。
- 水路:変わっていくもの、止まらないものの象徴として再登場。
物語として読むと、語り手は過去を思い出しつつも、現在と未来を静かに受け入れている姿が浮かび上がります。
リスナーとして感じる「儚さ」と「再生」―歌詞が問いかける普遍性
この歌の本質は「儚さの中にある再生力」にあるといえます。
- 過去を悔やまず、現在を嘆かず、ただ「経る」ことの尊さを受け入れる。
- 「時」は傷を癒すだけでなく、次の出会いや感情へと導いてくれる存在。
- リスナー自身の人生とリンクしやすく、聴くたびに解釈が変わる普遍性を持つ。
松任谷由実の楽曲は、聴き手に深い自己投影を促しますが、「経る時」はその中でも特に“時間との向き合い方”を優しく問いかけてくる作品です。
総括:過ぎた日々は、忘却ではなく「受容」によって意味を持つ
「経る時」は、松任谷由実が長年にわたって描いてきた「時間」「記憶」「愛」のテーマを集約した楽曲といえるでしょう。
それは過去の出来事を美しくラッピングするのではなく、苦しみも怒りも「今は昔」として、あるがままに受け入れていく力を讃える歌。現代のリスナーにとって、特に人生の節目や感情の整理をしたいとき、この歌は大きな気づきを与えてくれるに違いありません。


