【春よ、来い/松任谷由実】歌詞の意味を考察、解釈する。

「春」は「希望」のメタファー

春、と言う言葉からは(季節としての春という意味を除き)どんなニュアンスを感じるだろうか。

多くの方は「希望」や「出発」などのポジティブなニュアンスを持っているのではないかと推察する。
苦労が実を結ぶ、良き出会いがある、そういった場合に「春が来た」と表現することもある。

春が来る、来た、という事は、その前は冬であった、という意味でもある。

不幸、孤独、絶望、辛苦、そういった状態にいるからこそ、人は春を待ちわびる。

歌の題材としても春は数え切れないほど多くの歌にモチーフとして用いられてきた。

出会い、別れ、卒業、門出、郷愁。
歌によって表現する世界は様々あるが、日本を代表するシンガーソングライターの1人である松任谷由実が1994年にリリースした「春よ、来い」のような世界を表現した歌は他にはおよそ見当たらない。
唯一無二といってもいいだろう。

脚本家である橋田壽賀子の自伝的な物語である朝の連続テレビ小説「春よ、来い」の主題歌として発表されたこの歌はそれまでの「春の歌」とも、それまでのユーミンの作風とも異なった新機軸の歌だった。
歌詞は文語体が用いられ詩的に美しくまとめられている。
サウンドは和を感じさせる美しいピアノフレーズが印象的に楽曲を彩る。

そして何よりも違うのは他の春の歌が「春が来た状態」で歌われているのに対し、この「春よ、来い」はまだ春が来ていない、つまり未だ耐え忍ぶ冬の状態にあるということではないだろうか。
だからこそ「春よ、来い」と切に願う心情がより一層美しく響くのではないかと感じる。

今回は半世紀もの間活動を続けているユーミンの楽曲の中でも代表曲の一つとして数えられる名曲「春よ、来い」を歌詞から考察してみたい。

ドラマ「春よ、来い」主人公の境遇を歌っている?

淡き光立つ 俄雨

いとし面影の沈丁花

溢るる涙の蕾から

ひとつ ひとつ香り始める

それは それは 空を越えて

やがて やがて 迎えに来る

先程も触れたがこの「春よ、来い」は朝の連続テレビ小説「春よ、来い」の主題歌である。

タイトルも同じとあって、歌詞の内容もドラマの内容に沿ったものと推察されるが、ドラマの内容はどういったものだったのだろうか。

ドラマ「春よ、来い」は「渡る世間は鬼ばかり」「おしん」「おんな太閤記」などで知られる脚本家の橋田壽賀子の自伝的ドラマである。

大正に生まれ、戦争を経て、両親の死、絶望の中での自殺未遂、そして最愛の夫との死別といった激動の「冬」が彼女を襲う。
ユーミンの歌はまさに「春=幸せ」を待ちわびる主人公の心情を描いている。

歌詞は一部、古典的な文語体で書かれておりサウンドとマッチした幻想的なものとなっている。

「淡き光立つ俄雨」は襲いかかる様々な艱難辛苦のことであろうか。
「沈丁花」は2月~3月に咲く花で、まさに春が目の前まで迫っている季節となる。
花はまだ蕾だが、香りの気配は確かにそこまで来ている。

Bメロでは「それは それは 空を越えて やがて やがて 迎えに来る」とあるが、「それ」は何を指しているのだろうか。
その謎はサビにて明らかにされる。

春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに

愛をくれし君の なつかしき声がする

「遠き春」とは幸せであったあの頃、という意味ではないだろうか。

「君」は両親、最愛の人、あるいは親友だろうか。
いずれにせよ「君」はもういない。
「君」は遠き春に亡くなってしまった。
そして、「君」を失ってから「冬」が始まったのではないだろうか。

主観だが、この語り部は人生における晩年、「そろそろ私もこの人生を終えようとしているのだろうか」と気づいた時の心情を歌っているのではないかと推察する。

ずいぶん長生きしたが、両親、結婚相手、親友、そういった人たちと会える、つまり「死」を迎えるときがこの語り部の「春」なのではないだろうか。

自殺未遂まで犯したドラマの主人公。
彼女にとっては生きていることが辛く寒い「冬」であり、「死」は愛する人たちと会える「春」という幸せなのではないだろうか。

「蕾が香り始める」というのは「春がもうそこまで来ている=私の人生ももうすぐ終わり」という暗示であり、花開く春がきたその瞬間が「死」なのではないだろうか。

辛く長い人生から解放され、なつかしい人たちに会える。

「春」はもうすぐそこまで来ている。

幻想の中の「君」にすがる主人公

君に預けし 我が心は

今でも返事を待っています

どれほど月日が流れても

ずっと ずっと待っています

それは それは 明日を越えて

いつか いつか きっと届く

春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき

夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く

一番では「春=死」という図式を描いた。

二番では「語り部の幻想の中にいる君」を描いているのではないだろうか。

早くこの冬、辛い人生から抜け出したいと願う語り部。

だが、「君」はそれをどう思うだろうか。
語り部が「その時ではない」死を迎えた時、「君」はきっと悲しむだろう。
それは自殺であったり、孤独や悲哀に打ちひしがれたまま死んでゆくような「悲しい死」ではないだろうか。

まだ生きなさい。
「君」はそう言う。
語り部は待ち続ける。
辛く長い人生を終えるその時を。
「もう楽になってもいいよ」という「君」の返事を待ち続けている。
「君」がくれた「夢」を想い、そこまで来ている「春」を感じて生き続けている。

これは全て語り部の幻想である。
遺された人間は、亡くなった人を想い、あの人ならこう言うだろうな、という幻想をいだく権利がある。

そして、それが遺された孤独な人間が持つある種の「強さ」にもなる。

「春」を待ちながらも生きることを選んだ語り部

夢よ 浅き夢よ 私はここにいます

君を想いながら ひとり歩いています

流るる雨のごとく 流るる花のごとく

春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに

愛をくれし君の なつかしき声がする

春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき

夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く

この歌における「春」は幾つかの意味を持つ。

まずはすぐそこまで来ている春。
時間軸の現時点で語り部が存在する位置に最も近い未来にある春である。
語り部はそれを「死」と捉えている。

そして「君」と共にいた「遠き春」。
昔の幸せな頃を象徴する言葉である。

もう一つが「まだ見ぬ春」。
これは語り部が捉える「死」とは違う、「悔いのない晩年」を指すのではないだろうか。
この「まだ見ぬ春」を見た時こそが「冬」から抜け出した時であり、語り部の望む「春」を迎える時なのではないだろうか。

辛く長い人生を送った語り部。
その「春」がどういうものなのか、「まだ見ぬ」語り部はそれを知らない。

しかし、「君」が返事をくれる時、きっと語り部は「その春」を迎えているのだろう。

タイトルの「春よ、来い」に最も近い「春」はこの「まだ見ぬ春」なのではないだろうか。

その時が来るまで、語り部はひとり歩き続ける。
「君がくれた夢」を想いながら。