【踊り子/Vaundy】歌詞の意味を考察、解釈する。

音楽だけに留まらないVaundyの表現世界

Vaundy(バウンディ)の音楽はデザイン的である。

新旧様々なジャンルからピースを集め、組み合わせ、形作って色をつける。
職業的ミュージシャンというよりはマルチデザイナーに近いと思う。
例えば、こういうシーンにこういったイメージの音が欲しい、という要望があればVaundyは即座に対応できるだろう。
勿論、出来上がった作品は豊富な経験に基づく確たるクオリティを持つであろうことは想像に難くない。
そして、Vaundy自身もアートワーク制作や映像制作なども手掛けるマルチアーティストである。
器用である。
ロックも、ジャズも、ヒップホップも、その他数多のジャンルを軽々と飛び越えて最もフィットするピースを探し出し、組み合わせる。
そのイメージにマッチする絵や映像も自身で作成し、当てはめる。
順番が逆の場合もあるだろう。
絵や映像があり、それにマッチする音を作り上げる。
そんなやり方もVaundyの才能の一つである。

インタビューではこんなことが語られている。

「自分の作りたいものは何だろう?」ということを常に考えていますね。
で、現代のオリジナルって、散らばっているピースを面白くハメることだと思うんです。
持論ですけど、真のオリジナルというか、音楽の進化ってたぶん80年代か90年代には終わっているんじゃないかと思っていて、そこから先は組み合わせの文化で、そのなかでも日本の音楽で進化をしたのがアニソンだと思っているんですけど

アニソンもあらゆるジャンルを内包する音楽で、作品・登場人物・ストーリーと密接に関連するような作品が多い。
一種の劇伴である。
日本におけるアニメ自体も「のらくろ」や「サザエさん」、あるいは「黄金バット」「妖怪人間ベム」といったクラシックから随分と進化を遂げた。
現在でも高い評価を受けるスタイリッシュなアニメの一つに「ルパン三世」があるだろうか。
おなじみの「ルパン三世のテーマ」は勿論、「ルパン三世愛のテーマ」といった、ジャズの影響を受けた都会的な音楽はアニメ本編と切っても切り離せないまさに「劇伴」である。
他にも、「聖闘士星矢」の主題歌である「ペガサス幻想」はScorpionsを思わせるジャーマンメタルで物語を盛り上げ、「美少女戦士セーラームーン」の主題歌の「ムーンライト伝説」は歌謡曲とクラシックの融合とも呼べるアレンジが施され、少年少女の好奇心と想像力を大きく刺激した。

「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌「残酷な天使のテーゼ」の歌詞が「作品をよく知らないまま書かれたもの」であると同時に「エヴァといえばこの曲」というイメージが強く残っているように、必ずしもアニメ本編とその主題歌が緻密にデザインされたものではないケースも往々にしてよくあることではあるが、「けいおん!」や「魔法少女まどかマギカ」のようにストーリーを補完する内容の主題歌、また「カウボーイ・ビバップ」や「サムライ・チャンプルー」のように作品に沿ったデザインがなされたアニメの劇伴はVaundyが言うように日本独自の文化として進化を遂げてきた。
いずれも斬新なジャンル、というわけではない。
組み合わせである。
「サムライ・チャンプルー」の劇伴に至ってはそのために新たに作られた作品というわけでもない。
トラックメイカー・Nujabesが過去に発表した作品を使った、それだけである。
それだけではあるが、作品にはこれ以上なくマッチしている。

今回取り上げるVaundyの「踊り子」はどうだろうか。
小松菜奈が出演するこの曲のMVの物語―綺麗な女の子が一人歌い、踊り、誰もいない夜の街を走り、誰もいない夜の遊園地で遊ぶ。
この絵がVaundyには初めからあったのだろうか。
曲自体はBroken Social Sceneを思わせる削ぎ落とされたポストロックである。
シンプルなドラムス、ベースと夜の街を彩る淡い光のようなギター。
気だるくも温もりをもったVaundyの声が儚く物語を描くこの曲が先にできたのか、MVのようなスタイリッシュな世界観が先にあったのかはVaundy本人のみぞ知るところであろう。

今回はこの「踊り子」を考察してみたい。

軽いけど重い、近年の恋愛事情

ねぇ、どっかに置いてきたような

事が一つ二つ浮いているけど

ねぇ、ちゃんと拾っておこう

はじけて忘れてしまう前に

回り出した あの子と僕の未来が

止まりどっかで またやり直せたら

回り出した あの子と僕が被害者面で

どっかを また練り歩けたらな

あのね、私あなたに会ったの

夢の中に置いてきたけどね

ねぇ、どうして私が好きなの

一度しか会ったことがないのにね

思いを蹴って

二人でしてんだ

壊(わす)れない愛を歌う

言葉を二人に課して

誓いをたてんだ

忘れない愛を歌うようにね

回り出した あの子と僕の未来が

止まりどっかで またやり直せたら

回り出した あの子と僕が被害者面で

どっかを また練り歩けたらな

回り出した あの子と僕の未来が

止まりどっかで またやり直せたら

回り出した あの子と僕が被害者面で

どっかを また練り歩けたらな

時代に乗って僕たちは

変わらず愛に生きるだろう

僕らが散って残るのは

変わらぬ愛の歌なんだろうな

遂に、結婚に至る出会いのきっかけとして「マッチングアプリ」が最も多い時代となった。
出会いを欲しがる者は手軽に同じく出会いを欲しがる者を探せる。
恋人が欲しいという「前提」を探らずに済むのは楽である。
気になる人が出来たとして、恋人はいるのだろうか、いないとして、欲しているのだろうか。
自分が好意を寄せたら迷惑だろうか。
そういった「前提」を一挙にクリアできるマッチングアプリは若者から中高年に至るまで便利なツールとして市民権を得た。
出会いをカジュアルに、スタイリッシュに。
重いのはめんどくさい、ダサい自分は許せない、相手が嫌になったらブロックすればいい。
出会いも別れも手っ取り早い世の中である。
手っ取り早く、映画やドラマのような恋愛がしたい。
世界で一人だけの特別な相手と思い込みたい。
たった一度のデートでも、他の人から見てイケてる二人に見えただろうか、二人のデートをインスタにアップしたらみんないいね押してくれるかな。

これは私がこの「踊り子」を聴き、MVを見た上で感じたざっくばらんな感想である。
決してマッチングアプリというものをバカにしているわけでも、カジュアルな出会いをバカにしているわけでもない。
それは、恋愛をスタイリッシュでカジュアルなものにしなければいけない、という若者の重い感情も感じるからである。
嫌われたくない、泥臭いのはダサい、格好良く有りたい、これは映画やドラマの影響による「ロマンチック至上主義」の弊害だと私は思う。
お見合いなんて時代遅れ、自分の結婚相手くらい自分で見つけてみせる、世界に一人だけの特別な人が必ず見つかる、そういった幻想が昨今の少子化、未婚率の上昇の要因の一つであると私は思うのだが、人間の本質はそう変わっていない。
本質的には、誰かの温もりが欲しいし、孤独よりは仲間が欲しい、友達が欲しい。
時代にうまく、ストレスなく乗れる人も勿論いるだろう。
しかし、オシャレでなければ恋愛する資格はない、車がなければ結婚する資格はない、年収が1000万円以上なければ私には釣り合わない、そういった様々な「恋愛の資格」を持たなければいけないのであれば孤独を選ぶ、という人も多いのではないだろうか。
それでも孤独が嫌であれば、多少の無理をしてでもオシャレに生きる。
流行のファッションに身を包み、流行の音楽を聴き、流行の映画を観る、ドラマを観る、スマホはiPhoneで、コーヒーはスタバかブルーボトル。
寂しいのはイヤだから、仮面を被る。

歌詞に出てくる「被害者」が何を表しているのか、抽象的な歌詞からは測りかねるところではあるが、私が思う「被害者」はそういった恋愛を押し付けられた若者である。
泥臭くみっともない恋愛を禁じられた若者の苦しみが、この「踊り子」という悲しい歌には込められているのではないだろうか。

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