【藤井風「花」歌詞考察】しおれた花束が語る命と再生のメッセージとは?

2023年にリリースされた藤井風の「花」は、静かなメロディと美しい言葉でリスナーの心に深く響くバラードです。この曲はNHKの番組『あしたが変わるトリセツショー』のテーマソングとして書き下ろされたものですが、ただのタイアップ曲に留まらず、藤井風というアーティストが一貫して描いてきた“命”“愛”“赦し”といったテーマが凝縮されています。

本記事では、この楽曲の歌詞を丁寧に読み解き、その背後にあるメッセージや表現手法について考察します。


内なる“花”とは何か:メタファーとしての「花/萎れた花束」

歌詞冒頭に登場する「しおれた花束」は、視覚的には枯れた命の象徴にも思えますが、藤井風の世界観では、むしろ“終わりではない何か”を暗示しています。

  • 「しおれた花束」が象徴するのは、過去の失敗や喪失、あるいは失われた感情。
  • しかしそれを「かかえて」とあるように、否定するのではなく抱きしめることで、新たな意味が生まれる。
  • 花は、咲き誇る時期だけでなく、枯れてもなお存在価値があるという見方。

このように、「花」は「命」「愛情」「感情」の比喩であり、それがしおれても“抱える”ことで成長や気づきへと変わっていくというメッセージが込められていると読み取れます。


生と死の交錯:歌詞に描かれる終わりと始まりの構図

藤井風の楽曲では、しばしば「死」が「再生」と地続きで描かれます。「花」でも同様に、命の終わりを連想させる言葉の中に、次のステージへの始まりを感じさせるフレーズが多く登場します。

  • 「誰かの命が終わる」というような表現はないが、「なくなったものを受け入れる」姿勢が明確。
  • 「すべてを水に流して」の一節には、浄化やリセットの意味合いがある。
  • 終わりを否定せず、自然な流れとして捉える仏教的な思想の影響も見受けられる。

このように、「花」は生と死の狭間に立ち、死すらも否定せず、あくまで“流れ”の一部として受け止める姿勢を提示しています。


自己探求と再生の旅路:「誰を生きようかな」「探しにいくよ」の意味

歌詞の後半で印象的なのが、「誰を生きようかな」というフレーズ。これは、自分自身を見失いそうな状況にある人が、再び自分を取り戻すための“問いかけ”とも読めます。

  • 「誰を生きる」は、社会の期待や他人の価値観ではなく、自分自身の本質を問い直す行為。
  • 風はこれまでも「何者でもない」「ただ在る」という価値観を音楽に込めてきた。
  • 「探しにいくよ」という宣言は、再び“生きる”ことへの意志表明。

これは迷いや葛藤の先にある「再生」のプロセスであり、過去の自分すらも肯定したうえで、新たな「自分」を選んで生き直すという強い決意を感じさせます。


他の楽曲とのリンク:藤井風の世界観における「花」の位置づけ

「花」は、藤井風の他の楽曲と通底するテーマを持っています。特に「死生観」「愛の普遍性」「受け入れることの大切さ」は、彼の楽曲で繰り返し語られてきた重要なモチーフです。

  • 「帰ろう」「ガーデン」などにも、命の循環や再生のモチーフが登場。
  • 藤井風にとって“愛”とは“選ぶこと”“赦すこと”という哲学的な意味合いがある。
  • 「花」はこれらのテーマを、より静かで内省的なトーンで表現した楽曲といえる。

つまり、「花」は単独で完結する楽曲でありながら、彼の音楽的・思想的な流れの中に位置づけることで、より深い意味を持つ作品になります。


MV・映像表現から読み解く「花」の深層:死生観・転生・時間の流れ

ミュージックビデオでは、時間の流れや生と死の象徴として「水」「木」「風景の変化」が用いられています。これらの視覚的要素は、歌詞の解釈をより深める手がかりになります。

  • 幼少期から老年期までの人生を象徴するようなビジュアル構成。
  • 「水に流して」の歌詞と連動するような川や水面の描写。
  • 死ではなく“次の命”への移行として描かれる演出。

MVでは、命の終わりを悲しむのではなく、“命が移り変わっていくこと”を美しいものとして捉えており、藤井風の死生観が色濃く反映されています。


【Key Takeaway】

藤井風の「花」は、単なるラブソングや人生賛歌ではなく、「命の儚さ」と「再生の強さ」を描いた深い作品です。しおれた花のように見える過去や傷でさえも、次の命へと繋がる力になる。そう語りかけるようなこの楽曲は、多くの人の心に静かに寄り添い、そして再び歩き出す勇気を与えてくれるでしょう。