【虹/森山直太朗】歌詞の意味を考察、解釈する。

「虹」という曲は、森山直太朗さんと御徒町凧さんが共同で作詞・作曲し、信長貴富さんが編曲した合唱曲です。

この曲は、2006年に第73回NHK全国学校音楽コンクールの中学校の部の課題曲として制作され、混声三部版と女声三部版が発表されました。

特に後半のソリ部分が印象的であり、中学校の合唱コンクールなどでよく歌われる人気曲となっています。

歌詞は一貫した解釈が難しいものの、今回はそのストーリーや主題、そして「虹」が表す意味について考察してみたいと思います。

曲の内容について個々の解釈や考えを持ってから、こちらの考察を読んでいただければと思います。

また、この曲をまだ聴いたことがない方は、ぜひ聴いてみてください。

希望の「光」をもたらす大切な時間だった

広がる空に 僕は今 思い馳せ
肌の温もりと 汚れたスニーカー
ただ雲は流れ

きらめく日々に 君はまた 指を立て
波のさざめきと うらぶれた言葉
遠い空を探した

最初の二つのフレーズを見ると、助詞の使用が少なく、それぞれの言葉がどのように関連しているのか理解しにくいですね。

「肌の温もりと 汚れたスニーカー」

「波のさざめきと うらぶれた言葉」

これらは対句として配置されており、肯定的な意味合いの言葉と否定的な意味合いの言葉が対照的に置かれています…といった指摘ができます。

しかしここでは、もう少し深く掘り下げてみましょう。

この歌詞の

「肌の温もりと 汚れたスニーカー」「波のさざめきと うらぶれた言葉」

という二つのフレーズは、主要なストーリーに挿入される、一瞬の記憶のようなもので、主要なストーリーは

「広がる空に 僕は今 思い馳せ(肌の温もりと 汚れたスニーカー)ただ雲は流れきらめく日々に 君はまた 指を立て(波のさざめきと うらぶれた言葉)遠い空を探した」

という「僕」の「君」という対比が残されているのではないでしょうか?

この部分では、「僕」が空を見上げながら「考えを巡らせる」(遠くを考えにめぐらせる)様子が描かれています。

その後に続く「僕は知らない街で 君のことを想っている」などの表現から、ここは旅立ちの場面だと読み取れます。

多くの物語では、どちらかが「旅」に出かける際、もう片方は故郷に留まるという対比が見られるので、このことから「僕」が旅人で、「君」は待つ存在として考えられてしまいがちでした。

しかしながら、「君」の「指を立て 遠い空を探した」は、単純に解釈すると旅立ちの意志を持っているようにも見えます。

同時に旅立ったのか、またはそれぞれのタイミングで出発したのかはわかりませんが、進む道は異なり、それがこの後の「別れ」につながります。

この「旅」とは、おそらくそれぞれの人生を象徴し、それぞれの歩む道の違いを表しているのだろうとも考えられます。


さて、以前に触れた
「肌の温もりと 汚れたスニーカー」
「波のさざめきと うらぶれた言葉」
以外にも、突然登場する名詞があります。

後半に現れる「雨上がりの 坂道」「風に揺れるブランコ」です。

これらは「スニーカー」や「ブランコ」など、幼少期を連想させる表現も含んでおり、二人が旅立つ前の共有した時間の「思い出のアルバム」ではないでしょうか。

その意味合いについては後の解釈に繋げてみたいと考えています。


冒頭で旅立つ決意をした「僕」と「君」。

「時は過ぎ、いつの日か、見知らぬ街で、僕は君のことを思い出している」という一節は、「僕」の視点から、「君」を忘れていないことが描かれています。

風になった日々の空白を 空々しい歌に乗せて
未来を目指した旅人は笑う
アスファルトに芽吹くヒナゲシのように

「風」という表現で旅人を描写することは一般的です。

そのため、「風になった日々」とは旅に出てからの時間を指しているでしょう。

「君」との別れの期間を、何もない虚無のような時間を「わざとらしい歌」で慰め、自分を励ましつつも、それでも旅人である「僕」は笑っています。

その姿は、厳しい環境の中でも負けずに、アスファルトの上で一本だけ頑強に咲くポピーの花のようです。

明日へと続く不安げな空に
色鮮やかな虹か架かっている

僕らの出会いを 誰かが別れと呼んでも
徒(いたずら)に時は流れていった 君と僕に光を残して

それぞれの場面での日々には、不安もあるかもしれませんが、その中には鮮やかな虹がかかり、希望を予感させてくれます。

「僕」と「君」の出会いが「別れ」ばかりに焦点を当て、「結局は離れてしまうのではないか」と思う人がいたとしても、二人の時間は決して無駄ではなく、それぞれの旅に希望の「光」をもたらす大切な時間だったのです。

このように解釈することで、ストーリーとして一貫性を持たせる自然な解釈が可能だと感じました。

しかしこの歌において、実際の本質はここからです。

まだ歌詞の大部分に触れていないのですが、むしろこのストーリー性とはあまり関係のなさそうなレトリック(表現技法)的な要素が、この曲の本質を構成していると考えます。

では、それらの点について考えていきましょう。

日常こそが、かけがえのない日々

まず、結論から述べると、この歌詞の主題は「同じ事象や物事にはプラスとマイナスの側面があり、それらは裏表一体であり、観る人によって解釈が異なる」というものだと考えています。

この視点に基づいて、様々な歌詞を見てみましょう。


喜びと悲しみの間に 束の間という時があり
色のない世界
不確かな物を壊れないように隠し持ってる

もし言葉を補足するならば、「喜びと悲しみの間には、一瞬の時間があり(それは)色のない世界で、不確かな感情を壊れないように抱えている」とつながることでしょう。

「束の間」とは、ほんのわずかな短い時間を指します。

感情は「ここからが喜び!ここからが悲しみ!」とはっきりと区別されるものではなく、その間に微妙な色合いがあり、どちらの側面にもなり得る、まだはっきりと色が定まらず不確かな感情がそこに隠れている、と捉えました。

「虹」の七色も完全にはっきりと七つの色に分けられるわけではなく、変化する連続したものであり、この表現に関連すると思います。


僕らの出会いを 誰かが別れと呼んだ
僕らの別れを 誰かが出会いと呼んだ

この歌の印象的なフレーズですが、「別れは出会いの始まり」という言葉があります。
同様に、「出会い」とはいずれ訪れる「別れ」の始まりであり、「別れ」とは、また別の誰かとの「出会い」の始まりでもあるのです。
谷川俊太郎さんの「春に」には「よろこびだ しかしかなしみでもある」というフレーズがありますが、これは対立する感情が同時に存在するという趣を表しています。


・肌の温もりと 汚れたスニーカー
・波のさざめき(騒がしさ)とうらぶれた(落ちぶれた、弱々しい)言葉
・雨上がりの坂道
・風に揺れるブランコ

先の二行はプラスとマイナスの対比がみられることを述べました。

同様に「雨上がりの坂道」も、雨のイメージとそれが上がった後の喜び、坂を上る大変さと、それでも上へと進むプラスのイメージが同居していると考えられます。

「風に揺れる」は、それ自体が行ったり来たりする二面性を象徴しているとも読み取れます。

ブランコという遊具としての楽しいイメージと、誰もいない寂しいイメージの二面性も捉えられます。

過去の思い出も「素晴らしい思い出」だけでなく、同じ体験でも捉え方によって「楽しい体験」または「寂しい体験」としても感じられることを示唆していると感じました。


僕らの出会いを 誰かが別れと呼んでも
徒(いたずら)に時は流れていった 君と僕に光を残して

ラストの二行においても「出会い」と「別れ」が繰り返し歌われますが、次につながるように「別れと呼んでも」と逆接のつながり方を示しています。

「別れ」という呼び名にもかかわらず、その時間は「君と僕に光を残して」いった特別な時間だったのです。

これに対して、気になるのは「徒(いたずら)に」という言葉です。

「徒に」とは「無駄に、ただなんとなく」という否定的な意味を持つ言葉です。

もし「徒に」という表現が、例えば「きらめく日々は流れていった」などのように、終始プラスの意味を持つ表現であれば、疑問は起きないでしょう。

なぜ「徒に」なのでしょうか?

ここにも「二面性」というテーマが込められている可能性が考えられます。

「僕」と「君」の共有した時間というのは、客観的には特別なドラマチックな出来事ではなく、「ただなんとなく」過ごした日々だったかもしれません。

これまでの思い出写真に映し出される光景も普通の日常の風景です。

そのことが「徒に」という言葉に繋がります。

しかしそんなありふれた無駄に見える「日常」こそが、実際には大切で貴重な時間であり、そのような時間こそが二人が別れた後の「光」になっていくのかもしれません。

恋人との別れを歌った有名な曲に「何でもないようなことが 幸せだったと思う」というフレーズがありますが、まさに「無駄な」「なんとなく」過ごす日常こそが、かけがえのない日々であることを気づかせられます。

「虹」という題名やその意味

最後に、「虹」という言葉とこの歌詞全体を繋ぐ重要な要素があります。


この歌の共作者である森山さんと御徒町さんが対談をしている文章があります。

これは、森山さんの15周年ベストアルバム『大傑作撰』の歌詞カードの後半部分、「作品解説」として掲載されています。

そこには以下のような内容が含まれています。

  • この曲は、2005年に御徒町さんが特定の演劇ワークショップの一環として『虹』という戯曲を執筆したことが発端です。
  • 戯曲のテーマは「自殺問題」で、劇中の世界では「人が死ぬと虹が現れる」という伝承があり、喜びと悲しみのバランスが世界の存立の要であるという設定です。
  • その戯曲の舞台発表直前に、二人の長い付き合いのある共通の友人が自死してしまった、と述べられています。

「虹」という題名やその意味について、4つの考え方を示してみました。

  1. 「人が亡くなった時に虹がかかる」という裏の意味を持つ「虹」:この解釈は歌詞からは推測できないが、歌の背後にある意味や、亡き親友への象徴としての「虹」と結びつく可能性がある。
  2. 純粋に「希望」を表すプラスイメージの「虹」:歌詞で未来の幸せを暗示し、希望を表す「色鮮やかな虹」として捉えられる。
  3. 見る人によって多様に変化する「多面性」としての「虹」:「虹」の色数は人によって異なり、同様に歌詞の解釈も個人によって異なる。「出会い」「別れ」「プラス」「マイナス」など、多くの要素が異なる見方ができる。
  4. 「色のない世界」の思い出と、色鮮やかな未来としての「虹」:「色のない世界」が過去の記憶を指す場合、未来への「色鮮やかな虹」は対比として捉えられる。過去の思い出と未来への希望としての「虹」という視点も可能だろう。

天国の親友に向けての訴え

僕らの出会いを 誰かが別れと呼んでも
徒(いたずら)に時は流れていった 君と僕に光を残して

先ほどの森山さんと御徒町さんの親友に関するお話を聞いた後、最後の二行に対する新たな考察が浮かんできました。

歌詞全体に一貫性があるわけではありませんが、ここでは、周囲が「別れ」に注目している間にも、「出会い」に意味があったことを強調し、過去の時間は決して「徒(無駄)」ではなく、楽しいものだったと主張しているようにも受け取れます。

その時間は確かに存在し、それが2人にとってかけがえのない「光」に変わっているとのメッセージが込められています。

この部分は、天国の親友に向けての訴えのようにも感じられます。

ここでの「君」と「僕」が、直太朗さんと御徒町さんに残した光として旅立っていったようにも思えるのです。

個人的な解釈になりますが、最後の部分の感情が深く、感動させられる内容です。

これを共有させていただきました。

まとめ

「虹」のテーマに基づいて、「同じ対象にはプラスとマイナスの面が共存し、その解釈は見る人によって異なる」というアプローチでこの歌詞を考察しました。

この視点から、各部分の言葉やレトリックも一貫性がありそうです。

作詞者自身も「未だによくわからない」と述べているこの歌について、統一された解釈を提示することは難しいかもしれませんが、この見方で試みることに挑戦してみました。

もちろん、異論や別の考え方があるかもしれません。

皆さまの意見をお聞きすることで、より多角的な視点を得られればと考えています。