amazarashi(アマザラシ)が演じる『境界線』は、アニメ「86―エイティシックス―」の第2期オープニングテーマとして採用され、2021年11月17日にシングルリリース及び配信が行われました。
この楽曲の歌詞を深く分析し、曲に込められた意味を解き明かします。
境界線の向こうとこちら: 「86―エイティシックス―」におけるエイティシックスの苦悩と社会の見て見ぬふり
『境界線』は秋田ひろむによる作詞作曲で、アニメ「86―エイティシックス―」のテーマソングとして選ばれ、その物語世界と完璧に一致していると注目されています。
歌詞の意味を深く理解するために、まずアニメの概要を振り返りましょう。
「86―エイティシックス―」は、敵対する自律型兵器「レギオン」に立ち向かうために、無人とされる戦闘機「ジャガーノート」を駆る物語です。
だが、実際には「ジャガーノート」は無人ではなく、「エイティシックス」と称される若者たちが操縦しており、彼らは厳しい現実の中で戦い続けています。
「エイティシックス」は社会から非人間的な扱いを受け、まるで人間ではない存在として扱われています。
この物語は、「エイティシックス」たちが直面する苛烈な生活と、彼らを犠牲にする社会体制に対する疑問を描いており、「生存の意味」と「他者尊重の重要性」について考えさせます。
この背景をもとに、『境界線』の歌詞を詳しく解析していきましょう。
境界線の向こう側で 足掻く人々 嘆く人々 目にしながら
沈黙することを選択するならば 僕らは共犯者 人たりえたのか
歌詞をアニメ「86―エイティシックス―」のストーリーラインに照らし合わせると、「境界線」とは、一線を画す「エイティシックスが命を賭けて戦う前線地域」と「一般市民が安寧を享受する日常生活の領域」の分界点と解釈できます。
前線で苦悩し、もがいているエイティシックスの存在に対し、境界線の内側にいる人々は彼らを真の人間として認めず、無痛の生活を送っています。
「人たりえたのか」というフレーズにおいて、「たりえる」は「適する、相応しい」という意味を持ちます。
この部分は、境界線の内側にいる者たちが見て見ぬふりをする態度に、「本当に人間らしい行為なのか」という問いを投げかけているのかもしれません。
アニメの中で、エイティシックスが「人の形をした豚」と蔑まれる一方で、真に「人間らしさ」を欠いているのは、戦場から目を背ける市民の方かもしれません。
境界線の恐怖: 歌詞が映し出す人間性への問いかけ
現実世界においても、内と外の境界が問題を引き起こす事例は多くあります。
その代表例として、「国境を隔てた戦争」が挙げられます。
この現実世界での事象を踏まえ、「戦争」というテーマを用いて歌詞の意味を掘り下げてみましょう。
こんな風景見たくはなかった 泣いた声を塞いだ泣き声
「向こうは怖い」とでかい声がして それが伝播して残響が人を刺した
善良を粗暴へ容易く変える その一声は紛れない正義だ
惨い獣に姿を変えるのは いつの時代も守るため
歌詞中の「向こうは怖い」という表現は、「境界線を越えた側は脅威」という意味合いで捉えられます。
この感覚が、「自分達の安全を確保するためには相手を排除する必要がある」という考えに繋がり、人の性質を攻撃的に変える可能性があります。
たとえ「国防」という名の下に正義感を持っていたとしても、問題となるのは、境界の向こうにいる人々を排除して良いのか、見捨てても良いのか、という考えです。
境界の外側にいる人々も、内側にいる人々も、等しく「人間」として互いに敬意を持つべきですが、その敬意が欠如した時に暴力が生じます。
このように、歌詞は現実の世界での境界線による分断とその怖れが引き起こす問題を反映し、境界線の存在に対する警鐘を鳴らしているのかもしれません。
内と外: 自己の価値と存在の意義を巡る探求
『境界線』の楽曲解析を通して、アニメの架空の境界と、現実の「戦争における境界線」という具体的な例を見てきましたが、境界線は様々な場面で存在します。
この楽曲のミュージックビデオでは、「ゲームの内部世界」と「ゲームをプレイしている実世界にいるプレイヤー」の間の境界が描かれています。
さらに重要なのは、次に挙げる歌詞の部分です。
存在意義はいつだって自分以外 例えば君 その声だけ
存在価値はいつだって自分の中 個々に宿る銘々の色
「自分以外」と「自分の内部」という言葉を用いて、私たちは自己を一つの分界とみなし、「自分以外」と「自分自身」を識別します。
このようにして、私たちは自己の存在の根拠を外部に求めがちです。
この探求の中で、自己の価値もしばしば外に見出そうとします。
しかし、存在の「意義」が外に見つかるかもしれない一方で、「価値」は実は各人が内に秘めているものである可能性があります。