Vaundyの「飛ぶ時」は、力強く空へ飛び立つ瞬間を描いた楽曲です。
しかし、歌詞の主人公は最初から勇敢な人物ではありません。
心の中には、すぐには理解できなかった痛みがあります。
自分の言葉に自信を持てず、涙や感情さえ不確かなものとして扱っています。進む方向も、飛んだ先に何があるのかも分かっていません。
それでも主人公は、最後にそれらすべてを自分の「翼」として引き受けます。
この変化から見えてくるのは、過去を捨てて別人になる物語ではありません。
傷ついた自分も、迷っている自分も受け入れ、自分の運命とすれ違う前に飛び立つ物語
なのではないでしょうか。
この記事では、歌詞に登場する身体や羽のイメージ、「うらみわび」「解廊」といった難解な言葉、TVアニメ『黄泉のツガイ』やyama「飛ぼうよ」との関係から、Vaundy「飛ぶ時」の意味を考察します。
※本記事には歌詞および『黄泉のツガイ』の基本設定に関する考察が含まれます。作者の意図を断定するものではなく、公式コメントやインタビューを踏まえた一つの解釈です。
- Vaundy「飛ぶ時」はどんな曲?
- 結論|「飛ぶ時」は、自分の運命に追いつくための歌
- タイトルが「飛べ」でも「飛ぼう」でもない理由
- 痛みが身体を巡り、遅れて頭へ届く理由
- 「僕の痛み」と「あなたへ届く言葉」が対になっている
- 「うらみわび」とは?百人一首との関係
- なぜ主人公は自分の言葉や涙を「不甲斐ない」と感じるのか
- 不確かな「羽」が最後に「僕の翼」へ変わる理由
- 「置いていく」から「忘れない」へ変化する意味
- 「兵糧」と「退路」は何を象徴しているのか
- 「解廊」とはどういう意味?
- なぜ「自分」と「運命」がすれ違ってしまうのか
- 夜空から朝焼けへ向かう結末
- 『黄泉のツガイ』のユルと重なる「飛ぶ時」
- yama「飛ぼうよ」との違い
- 2026年8月に再び注目されている理由
- 「飛ぶ時」が伝える本当のメッセージ
- まとめ|「飛ぶ時」は、傷も迷いも翼に変えて旅立つ歌
- 「飛ぶ時」に関するよくある質問
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- 参考資料
Vaundy「飛ぶ時」はどんな曲?
「飛ぶ時」は、TVアニメ『黄泉のツガイ』第1クールのオープニングテーマとして書き下ろされた楽曲です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 曲名 | 飛ぶ時 |
| アーティスト | Vaundy |
| 配信日 | 2026年4月12日 |
| パッケージ発売日 | 2026年7月29日 |
| 収録作品 | 『飛ぶ時/飛ぼうよ』 |
| 作詞・作曲・アレンジ | Vaundy |
| タイアップ | TVアニメ『黄泉のツガイ』第1クールOPテーマ |
エンディングテーマのyama「飛ぼうよ」もVaundyが作詞・作曲・アレンジを担当しています。
Vaundyは公式コメントで、2曲を『黄泉のツガイ』に登場する存在と同じように“対”となる作品として制作し、共通する大きなテーマを「旅立ち」と説明しています。
パッケージには、Vaundyによる「飛ぼうよ」と、yamaによる「飛ぶ時」のカバーバージョンも収録されています。
結論|「飛ぶ時」は、自分の運命に追いつくための歌
結論からいえば、「飛ぶ時」が描いているのは、自分の運命に追いつくための旅立ちです。
Vaundyはインタビューで、この曲を『黄泉のツガイ』の主人公・ユルのために書いたと明かしています。
ユルは、閉ざされた東村で育ち、それまで真実だと思っていた世界から突然引き離される人物です。
知らなかった現実に直面し、自分の目的を見つけ直しながら強くなっていく。その姿を表すために作られたのが「飛ぶ時」でした。
ここで重要なのは、主人公が完全に強くなってから飛ぶわけではないことです。
恐怖は残っています。
進む方向も完全には見えていません。
過去の痛みも消えていません。
それでも、立ち止まっているうちに自分の運命とすれ違ってしまうかもしれない。だから、すべてが整うのを待たずに飛ぶのです。
「飛ぶ時」とは、恐怖がなくなった瞬間ではありません。
恐怖を抱えたままでも、今が自分の進む瞬間だと決めたとき
なのではないでしょうか。
参考:ROCKIN’ON JAPAN Vaundyインタビュー
タイトルが「飛べ」でも「飛ぼう」でもない理由
タイトルは「飛べ」ではありません。
誰かに飛ぶことを命令しているわけではないのです。
また、yamaの楽曲のように「飛ぼうよ」と誰かを誘っているわけでもありません。
「飛ぶ時」というタイトルには、
- 自分が飛ぶと決める瞬間
- 今いる場所から離れる時期
- 飛んでいる最中に感じること
という複数の意味を重ねることができます。
主人公に必要なのは、誰かからの命令ではありません。
自分自身で「今だ」と決めることです。
目的地がはっきりしていなくても、自分の内側から生まれた衝動に従う。その主体的な決断が「飛ぶ時」という言葉に込められているのでしょう。
痛みが身体を巡り、遅れて頭へ届く理由
歌詞の冒頭では、痛みが血管や心臓を通り、時間をかけて頭へ到達するようなイメージが描かれます。
痛みは、感じた瞬間にすべてを理解できるものではありません。
大きな出来事が起きた直後には、現実感がないこともあります。
その場では平気だと思っていても、しばらく経ってから、
「あの言葉に傷ついていた」
「あの出来事で、自分の世界が変わっていた」
と気づくことがあります。
「飛ぶ時」の主人公も、痛みを感じていないわけではありません。
まだ、その意味を処理しきれていないのです。
感情を頭だけの問題として描かず、身体の内部を巡るものとして表現することで、傷が自分の一部になっていく過程が生々しく伝わってきます。
「僕の痛み」と「あなたへ届く言葉」が対になっている
歌詞の前半では、主人公の痛みが自分の身体を巡ります。
一方、次の場面では、主人公が発した言葉が「あなた」の神経を通り、最後には目へ届くように描かれます。
ここには、明確な対の構造があります。
- 痛みを抱える僕
- 言葉を受け取るあなた
- 頭へ届く感情
- 目に表れる感情
主人公の痛みは、言葉へ変換されることで初めて他者へ届きます。
しかし、その言葉もすぐに理解されるわけではありません。
僕が自分の痛みに後から気づいたように、あなたも言葉の意味を時間差で理解するのです。
『黄泉のツガイ』では、生き別れた双子のユルとアサが、それぞれ異なる場所で別の経験を重ねています。
同じ血を持っていても、同じ瞬間に同じ感情を理解できるとは限りません。
それでも、痛みと言葉は身体の中を進み、やがて相手へ届く。
この構造にも、離れて存在する二人が少しずつつながり直していく物語が重なっているように感じられます。
「うらみわび」とは?百人一首との関係
歌詞に登場する「うらみわび」は、現代の日常会話ではほとんど使われない言葉です。
同じ言葉は、小倉百人一首の第65番、歌人・相模の和歌の冒頭として知られています。
古典における「恨みわび」は、相手を恨み続ける気力さえ失い、悲しみに疲れ果てた状態を表します。
Vaundyが百人一首を意識したと公式に説明しているわけではないため、直接的な引用だと断定することはできません。
ただし、「飛ぶ時」にも涙や消えない痛みが描かれていることを考えると、響き合う部分があります。
さらに、その感情は大きな嵐ではなく、わずかな隙間から入り込む冷たい風のように表現されます。
激しい怒りとして噴き出すのではない。
忘れたつもりでも、心の隙間から静かに冷たさが入り込んでくる。
主人公はすでに前へ進もうとしていますが、過去への恨みや悲しみを完全には処理できていないのでしょう。
なぜ主人公は自分の言葉や涙を「不甲斐ない」と感じるのか
主人公は、自分の言葉や涙に強い自信を持っていません。
うまく気持ちを伝えられなかった。
もっと早く真実に気づくべきだった。
傷ついても、すぐには行動できなかった。
そうした自分への失望が「不甲斐なさ」につながっていると考えられます。
しかし、この曲は弱い自分を切り捨てる方向へは進みません。
情けないと感じている言葉も涙も、主人公の背中へ集まっていきます。
背中は、荷物を背負う場所です。
同時に、鳥が翼を持つ場所でもあります。
つまり、これまで重荷だと思っていた経験が、そのまま空へ進むための力へ変わっていくのです。
不確かな「羽」が最後に「僕の翼」へ変わる理由
歌詞の序盤では、羽は自分の意志だけで生まれた確かなものではありません。
感情や状況によって、偶然現れたような不安定さを持っています。
主人公自身も、その羽を本当に信じてよいのか分かっていないのでしょう。
ところが終盤では、その羽を自分自身の翼として引き受けます。
ここで主人公が手に入れたのは、新しい能力ではありません。
初めから背中にあったものの見方が変わったのです。
涙を流したこと。
うまく言葉にできなかったこと。
向かい風を受けたこと。
進むべき道が分からなかったこと。
それらは飛ぶ邪魔をする欠点ではなく、現在の自分を形作った一部でした。
強さとは、弱かった過去を消すことではありません。
弱さを含んだ自分を「これが自分の翼だ」と認めることなのではないでしょうか。
「置いていく」から「忘れない」へ変化する意味
歌詞の中盤まで、主人公は過去の感情をその場へ置き、先へ進もうとしています。
ここだけを見ると、過去を捨てることで自由になる歌のようにも思えます。
しかし、終盤では態度が変わります。
主人公は、背負ってきたものを忘れずに飛ぼうとします。
この変化は重要です。
最初の主人公は、痛みから離れることを旅立ちだと考えていたのでしょう。
ところが本当に飛ぶ瞬間には、過去を消す必要がないと気づきます。
傷ついた記憶が残っていてもよい。
迷った時間も、自分の一部として持っていけばよい。
過去を忘れることと、過去に縛られないことは同じではありません。
「飛ぶ時」が描いているのは、忘却による解放ではなく、記憶を自分の力へ変えることによる解放なのです。
「兵糧」と「退路」は何を象徴しているのか
歌詞の後半では、突然、兵糧や退路といった戦いを連想させる言葉が登場します。
兵糧は戦いを続けるための備えです。
退路は、危険になったときに逃げるための道です。
どちらも生き残るためには必要なものですが、歌詞では、それらが周囲に生い茂っているように描かれます。
備えすぎること。
失敗したときのことを考えすぎること。
安全な道だけを探し続けること。
本来は自分を守るはずの準備が、かえって進む方向を見えなくさせているのかもしれません。
主人公が求めているのは、最も安全な道ではありません。
自分が本当に進むべき道です。
だから、目の前に見えている選択肢だけが正解ではないと考え、まだ見えていない空へ飛び出そうとするのでしょう。
「解廊」とはどういう意味?
「解廊」は、一般的な熟語というより、Vaundyが歌詞の中で造語的に使った言葉と考えられます。
漢字を分けると、
- 解=ほどく、解放する
- 廊=奥へ続く通路
というイメージが浮かびます。
そのため「解廊」は、絡まっていたものがほどけ、新しい場所へ続く通路が現れることを表しているのではないでしょうか。
穏やかな追い風ではなく、身体を削るほどの強い風によって道が開かれる点も印象的です。
人生を変えるきっかけは、いつも優しい形で訪れるとは限りません。
それまで信じていた世界が壊れること。
思いがけない真実を知ること。
大切な人と引き離されること。
そうした激しい出来事によって、初めて閉ざされた場所から外へ出る道が開くこともあります。
また、『黄泉のツガイ』の物語では「解」と「封」が重要な力として登場します。
「解廊」の「解」が、アサの持つ力や、ユルを閉ざされた世界から解放する存在を連想させる可能性もあります。
ただし、これは公式に説明された意味ではなく、作品設定を踏まえた一つの解釈です。
なぜ「自分」と「運命」がすれ違ってしまうのか
普通、運命は自分の前に現れるもの、あるいは自分を導くものとして描かれます。
ところが「飛ぶ時」では、自分が動かなければ、自分自身の運命とすれ違ってしまう可能性が示されています。
これは、運命が待ってくれるものではないということなのでしょう。
本当は挑戦したい。
誰かに会いに行きたい。
今いる場所を離れたい。
心の中ではそう思っていても、失敗への恐怖から動けないことがあります。
そのまま時間が過ぎれば、進むはずだった未来と現在の自分が、別々の方向へ進んでしまいます。
「飛ぶ時」の主人公が恐れているのは、空から落ちることだけではありません。
飛ばなかった結果、本来の自分から遠ざかってしまうことです。
そのため、この歌における飛翔は現実逃避ではありません。
むしろ、自分自身の運命へ戻っていく行為なのです。
夜空から朝焼けへ向かう結末
歌詞の終盤では、舞台が夜空から朝焼けへ移っていきます。
主人公は、明るくなってから飛ぶのではありません。
まだ周囲が暗く、進む先が見えにくい夜のうちに飛び立ちます。
これは、未来が保証されるのを待っていては間に合わないことを表しているのでしょう。
朝焼けは、すべての問題が解決したことを示す光ではありません。
暗闇の中で飛ぶことを選んだ人が、進んだ先で初めて見られる光です。
また、最後には一人だけで飛ぶのではなく、何かと連なりながら朝へ向かうイメージが生まれます。
ユルの旅立ちは個人的な決断ですが、その先にはアサや左右様、共に進む人々がいます。
自分で決断することと、誰かとつながること。
その両方がそろうことで、孤独な飛翔が新しい旅へ変わるのではないでしょうか。
『黄泉のツガイ』のユルと重なる「飛ぶ時」
『黄泉のツガイ』のユルは、山奥の東村で育った狩人の少年です。
閉ざされた環境で暮らしていたため、外の世界についてほとんど知りません。
しかし村への襲撃をきっかけに、それまで信じていた家族や村、双子の妹・アサに関する認識が崩れていきます。
Vaundyは、ユルを「自分が真実だと思っていたものから飛び立ち、新しい目的を見つけて強くなっていく主人公」と捉えて「飛ぶ時」を制作しています。
この背景を知ると、歌詞に描かれる迷いの意味がより明確になります。
ユルが捨てようとしているのは、故郷そのものではありません。
自分を閉じ込めていた、偽りや思い込みによって作られた世界です。
そしてユルが受け入れる翼とは、外から与えられた特別な力だけではありません。
村で生きてきた経験。
知らない世界への恐怖。
妹を想う気持ち。
真実を知ろうとする意志。
それらすべてを自分の力として引き受けることが、ユルにとっての「飛ぶ時」なのでしょう。
yama「飛ぼうよ」との違い
「飛ぶ時」と「飛ぼうよ」は、同じ旅立ちを別の方向から描いた楽曲です。
| 飛ぶ時 | 飛ぼうよ | |
|---|---|---|
| 歌唱 | Vaundy | yama |
| 対応する人物 | ユル | アサ |
| 感情の向き | 自分の内側へ向かう衝動 | 大切な相手への呼びかけ |
| 旅立ち方 | 自分で瞬間を選ぶ | 一緒に進もうと手を差し出す |
| 中心となるもの | 決意 | つながり |
Vaundyによれば、「飛ぶ時」はユルのための曲で、「飛ぼうよ」はアサのための曲です。
外の世界を知るアサは、閉ざされた場所にいた兄へ、前を見ることを許すように手を差し出します。
ユルは自分の内側から飛ぶ決意を生み出す。
アサは、大切な相手と一緒に飛ぶ未来を願う。
二人の意志は異なりますが、目指す景色は同じです。
別々の曲でありながら、二つがそろうことで一つの物語になる。その構造自体が『黄泉のツガイ』という作品を表しているのでしょう。
2026年8月に再び注目されている理由
「飛ぶ時」は2026年4月に配信された楽曲ですが、8月27日付のSpotify Japan「急上昇チャート」にも入っています。
発売直後だけで終わらず、時間をかけて聴かれ続けている楽曲だといえるでしょう。
再浮上の明確な理由は公式には説明されていません。
ただし、『黄泉のツガイ』が連続2クールで放送されていること、7月29日に「飛ぶ時/飛ぼうよ」のCDとアナログ盤が発売されたこと、互いの楽曲を歌ったカバーバージョンが収録されたことなどが、改めて曲を聴くきっかけになった可能性があります。
「飛ぶ時」は、アニメの物語が進み、ユルとアサの関係が明らかになるほど、歌詞の意味も見え方が変わる曲です。
一度聴いて終わるのではなく、物語と一緒に何度も聴き直したくなる構造が、長く支持される理由なのではないでしょうか。
「飛ぶ時」が伝える本当のメッセージ
「飛ぶ時」は、つらい経験があれば必ず強くなれると単純に励ます歌ではありません。
痛みは痛みのまま残ります。
弱かった過去を無理に肯定する必要もありません。
ただ、その経験を自分から切り離さずに持っていくことはできます。
飛ぶために、過去をすべて捨てる必要はない。
完璧な翼が生えるまで待つ必要もない。
今の自分にある不確かな羽を、自分の翼として認めればいい。
そして、目の前の道だけが正解ではないと気づいたとき、自分で空へ進む瞬間を選べばいい。
「飛ぶ時」が描いているのは、弱さを克服した人の物語ではありません。
弱さまで自分の一部として引き受けた人が、ようやく自分の運命へ向かって動き出す物語
なのではないでしょうか。
まとめ|「飛ぶ時」は、傷も迷いも翼に変えて旅立つ歌
Vaundyの「飛ぶ時」は、『黄泉のツガイ』のユルが、信じていた世界から飛び立つ瞬間を描いた楽曲です。
歌詞では、
- 痛みは時間をかけて理解される
- 言葉も相手へ遅れて届く
- 消えない悲しみが心の隙間に残る
- 不確かな羽が自分の翼へ変わる
- 過去を忘れずに旅立つ
- 目の前の安全な道だけが正解ではない
- 自分の運命とすれ違う前に決断する
という変化が描かれていると考えられます。
主人公は、強くなったから飛ぶのではありません。
飛ぶことを選び、自分の弱さも翼だったと認めたことで強くなっていきます。
未来が見えない夜でも、進まなければ朝焼けにはたどり着けません。
「飛ぶ時」とは、すべての準備が整った瞬間ではなく、今の自分のままでも進むと決めた瞬間なのではないでしょうか。
「飛ぶ時」に関するよくある質問
「飛ぶ時」はいつ配信された曲ですか?
2026年4月12日に配信されました。「飛ぶ時/飛ぼうよ」の完全生産限定盤CDおよびアナログ盤は、2026年7月29日に発売されています。
作詞・作曲は誰が担当していますか?
作詞・作曲・アレンジのすべてをVaundyが担当しています。yamaが歌う「飛ぼうよ」もVaundyの書き下ろしです。
「飛ぶ時」は何のアニメ主題歌ですか?
荒川弘原作のTVアニメ『黄泉のツガイ』第1クールのオープニングテーマです。
「飛ぶ時」は誰の心情を描いた曲ですか?
Vaundyは、主人公の兄・ユルのために書いた曲だと説明しています。信じていた世界から飛び立ち、新しい目的を見つけていくユルの心情が重ねられています。
「うらみわび」とはどのような意味ですか?
恨み続ける気力さえ失い、悲しみに疲れた状態を表す古語です。同じ言葉は小倉百人一首の相模の歌にも登場しますが、Vaundyが意図的に引用したかどうかは公表されていません。
「解廊」とは何ですか?
一般的な熟語ではなく、「解放」と「通路」を組み合わせたような造語的表現と考えられます。強い風によって、閉ざされた場所から先へ進む道が開かれるイメージとして解釈できます。
「飛ぶ時」と「飛ぼうよ」はどのような関係ですか?
『黄泉のツガイ』のユルとアサのように、対になる楽曲です。「飛ぶ時」はユルの内側から生まれる決意、「飛ぼうよ」はアサが大切な相手へ差し出す誘いを中心に描いています。

