【夏夜のマジック/indigo la End】歌詞の意味を考察、解釈する。

夏の終わり=恋の終わり

終わっていく夏を恋になぞらえて、ひと夏の切ない恋愛、というふうに描いた作品は数多くある。

プロトタイプはサザン・オールスターズの「真夏の果実」である。
春か初夏に出会い、色々な思い出を残し、波打ち際に書いたメッセージを波が消していくかのように儚く終わる、ひと夏の思い出。

他には何があるだろうか。
Mr.Childrenの「君がいた夏」やケツメイシの「夏の思い出」もそうだし、ZONEの「secret base ~君がくれたもの~」も夏の歌だ。
近年の中高生であればDAOKOと米津玄師による「打上花火」やMrs. GREEN APPLEの「点描の唄(feat.井上苑子) 」が心に残っている人も多いのではないだろうか。

春は別れと出会い、夏は燃えるような恋愛、秋は夏を乗り越えた二人がもっと近づく季節、冬は試練、というふうに、春夏秋冬の恋愛のイメージはそういった歌によるものなのか、それともそういうイメージがあったからそういう歌ができたのか、どっちだろうか。

そんな夏の恋愛ソングのスタンダードが川谷絵音という、言ってしまえば「天邪鬼」から生まれたというのも興味深い。

今回取り上げる「夏夜のマジック」は川谷が手掛けるバンドの一つであるindigo la End(インディゴ・ラ・エンド)が2015年に発表したシングル「悲しくなる前に」に収録されたカップリング曲である。

2016年に発表されたアルバム「藍色ミュージック」にも収録されたこの曲はカップリングながらファンの人気も高く、人気曲ランキングでも上位に位置する曲である。
ライヴでもよく演奏され、2017年にはアナザーストーリーとも呼ぶべき「冬夜のマジック」という楽曲も発表されている。
どちらかというと、発表当時から時間が経った頃に多くのリスナーがこの楽曲を再評価して広まった、という「バイラルヒット」の形と呼べる。

indigo la Endには悲しい恋愛を描いた作品が多い。
そのバンド名が指す通り、インディゴ・藍色=ブルーな感情を歌う、というのが川谷絵音の描いたコンセプトなのだろうか。

今回は新しい夏恋ソングの定番というべき「夏夜のマジック」を考察してみたい。

古くもなく新しくもない、デジタルとアナログの間の情景

夏の匂いを吸い込んで吐き出す

弱いまま大人になった僕でも今日は少し

強くなった気がしてはしゃぐ君の顔を思い浮かべた

祭りの音が聞こえ始める時間に

決まって鳴く野良猫の顔が嬉しそうだ

君の方が

僕より夏が好きだったね

夜が重なりあった

今日だけは夏の夜のマジックで

今夜だけのマジックで

歌わせて

今なら君のことがわかるような気がする

夏の夜限りのマジックで

今夜限りのマジックで

身を任す

夜明けが流れるまで

サザン・オールスターズの「真夏の果実」は海岸を舞台に今で言えば「アナログ」な世代の恋愛を描いた。
勿論当時はこれが「アナログ」という意識もなかっただろうが、今となればどこか牧歌的なイノセンスが「真夏の果実」という楽曲を構成する大きな要素だと思う。

対して近年発表された恋愛ソングは「デジタル」である。
Vaundyの「踊り子」や佐藤千亜妃の「クロノスタシス」といった近年の恋愛ソングから読み取れる情景にはスマートフォンを始めとしたデジタルな要素がある。
有り体に言えば、アナログな恋愛は熱を持っていて、デジタルな恋愛は醒めている。
勿論、人が人を想う気持ちにはデジタルもアナログもあったものではなく、ただその表現方法がサザン・オールスターズとVaundyでは決定的に違う、というのがアナログな情景とデジタルな情景の違いである。

「夏夜のマジック」はどうだろうか。
ゆったりとしたグルーヴは都会的だが、川谷絵音の歌詞には「女々しさ」がつきまとう。
「女々しさ」はデジタル世代の最も嫌う情景である。
スタイリッシュでインスタ映えする恋愛に「女々しさ」は似合わない。
ちょうど、この曲のMVがきらびやかな観覧車といった無機質な都会と、どこにでもあるような浜辺を舞台に撮影されているのと同じように、「夏夜のマジック」はアナログとデジタルを行き来する。
熱を持ち、女々しくて、スタイリッシュである事を失わず、そしてきちんと「夏の恋愛」を描いている。
「真夏の果実」の世界がダサい、「踊り子」みたいな恋愛は理解できない、そんなアナログとデジタルの合間にあるのがこの「夏夜のマジック」なのではないだろうか。

「ゲスの極み乙女」では見られない、まっすぐな川谷絵音

暮らしの中で生まれる歌を歌って

幸せ悲しみ摘んで

想いながら歩いた

打ち上がった花火を見て笑った君を思い出したよ

今日だけは夏の夜のマジックで

今夜だけのマジックで

歌わせて

今なら君のことがわかるような気がする

夏の夜限りのマジックで

今夜限りのマジックで

身を任す

夜明けが流れるまで

記憶に蓋をするのは勿体無いよ

時間が流れて少しは綺麗な言葉になって

夏になると思い出す別れの歌も

今なら僕を救う気がする

今日だけは夏の夜のマジックで

今夜だけのマジックで

歌わせて

今なら君のことがわかるような気がする

夏の夜限りのマジックで

今夜限りのマジックで

身を任す

夜明けが流れるまで

夏が終わる前に

この歌が始まって

こぼれる2人を見守るから

夏よ

ラララ歌わせて

ナツヨ

ラララ歌わせて

川谷絵音が手掛けるバンドはindigo la Endの他にもいくつかある。
芸人のくっきー!や小籔千豊、現代音楽家の新垣隆、ロックバンド「tricot」のボーカルである中嶋イッキュウらと結成した「ジェニーハイ」や楽曲制作として関わる「DADARAY」、海外でも評価の高いギタリスト・Ichika Nitoを中心に結成されたインストゥルメンタルバンド「ichikoro」など多岐にわたるが、やはり川谷絵音といえば「ゲスの極み乙女」である。
結成自体は2010年結成のindigo la Endよりも遅く、2012年に結成され、いくつかの作品をindigo la Endと同時進行で発表し、どちらのバンドもシーンで評価され始めた頃に「私以外私じゃないの」で大ブレイクした。

ゲスの極み乙女は川谷絵音の少々の毒を含んだ奔放な世界観が全方位に向けて放たれているのに対し、indigo la Endは真摯である。
「ゲス」のような毒はない。
しっとりとした湿り気と、最大のコンセプトである「恋愛」を実直に表現するのがindigo la Endである。

そして、indigo la Endの楽曲における恋愛は痛みや傷を孕んだ、ハッピーエンドではない結末が描かれるものが多い。
バンド名の通り、明るい色ではなくしっとりと沈んだ「藍色」である。

そして、川谷絵音はその「藍色」が終わる、傷や痛みから解き放たれる時は必ず来る、とそのバンド名を「indigo la End」と名付けたのではないだろうか。

この「夏夜のマジック」という楽曲からは、自信満々で、天邪鬼で、確信犯と呼ばれ毒を孕み、誰も気づかないような罠を仕掛けてほくそ笑むといった、「ゲス」の川谷絵音の姿は見られない。
本名である、「川谷健太」の心情を描いた、女々しい楽曲である。
だが、その女々しさは本来誰しもが持っているもので、それを陳腐にならないように、できるだけスタイリッシュに、ダサくならないように、それでいてきちんと体温を感じる作品である。

この「夏夜のマジック」はそのバンド名が象徴する「痛みの終わり」に最もふさわしい曲なのかもしれない。