MÁME(JO1)の「むらさきいろ」は、一見すると不思議で柔らかなタイトルを持つラブソングです。
しかし歌詞を追っていくと、無色透明、灰色、黒、青、黄色、そして紫と、さまざまな「色」が登場します。
なぜ愛は赤ではなく、紫なのでしょうか。
そして、物語の中に現れる「青い薔薇」と「黄色い薔薇」には、どんな意味が込められているのでしょうか。
「むらさきいろ」は、ただ幸せな恋を描いた曲ではありません。
そこにあるのは、誰かを愛することで初めて世界に色が生まれる喜びと、愛するからこそ生まれてしまう不安。そして、自分と相手の境界が曖昧になるほど誰かを求めてしまう人間の本能です。
この記事では、タイトルに込められた意味を中心に、「むらさきいろ」の歌詞が描く愛の形を考察します。
MÁME(JO1)「むらさきいろ」とは?
「むらさきいろ」は、MÁMEことJO1・豆原一成が歌う楽曲で、2026年9月4日にリリースされました。
作詞をT.K、作曲をT.Kとクボナオキが担当。T.KはJO1の川西拓実です。
また本楽曲は、豆原一成が出演するテレビ東京系ドラマ『夫婦と16歳〜狂気の隣人〜』のオープニングテーマとして制作されました。
川西拓実は楽曲制作について、作品を読んだときに浮かんだ色が「むらさきいろ」だったとコメントしています。
その理由として示されたのが、
赤=愛、私
青=青春、貴方
というイメージです。
つまり「むらさきいろ」は、赤と青という異なる二つの色が混ざることで生まれる色。
この公式コメントを踏まえると、タイトルそのものが楽曲の結論になっていることが分かります。
「私」と「貴方」が出会い、混ざり合ったときに生まれる色。
それが「むらさきいろ」なのです。
「むらさきいろ」の歌詞が描く物語
この曲を大きく捉えるなら、
色のなかった世界に誰かが現れ、その人を愛することで世界が色づいていく物語
だと考えられます。
ただし、その変化は単純ではありません。
愛する人がいるから幸福になる一方で、その人を失うことが怖くなる。
相手の愛を感じられなければ、不安になる。
好きだからこそ、もっと確かなものを求めてしまう。
だからこの曲では、世界の色が一つに固定されません。
無色透明だった世界が灰色になり、黒く染まりそうになり、それでも最後には「むらさきいろ」へ戻っていく。
この色の変化こそ、主人公の感情そのものなのでしょう。
なぜ最初の世界は「無色透明」なのか
物語の序盤で印象的なのが、世界がまだ色を持っていないという感覚です。
無色透明という言葉から連想されるのは、何も汚れていない美しさだけではありません。
むしろここでは、
まだ自分にとって意味のあるものが存在していない世界
とも読めます。
誰かを本気で愛する前の世界は、存在してはいるけれど、特別ではない。
景色も日常も時間も、ただそこに流れている。
しかし、愛する人が現れることで同じ世界が突然意味を持ち始めます。
昨日まで何とも思わなかった景色に思い出が生まれる。
何気ない言葉が忘れられなくなる。
いつもの毎日が、その人がいるかどうかによってまったく違って見える。
恋をすると世界が色づいて見えると言われることがありますが、「むらさきいろ」はその感覚を本当に「色」で表現した曲なのではないでしょうか。
赤は「愛する私」、青は「青春を生きる貴方」
タイトルを読み解くうえで最も重要なのが、川西拓実が語った「赤」と「青」の関係です。
赤は愛、そして私。
青は青春、そして貴方。
ここで興味深いのは、二人が最初から同じ色として描かれていないことです。
二人は違う。
価値観も、置かれた立場も、人生の時間も違うかもしれない。
それでも愛する。
赤が青そのものになるのでもなければ、青が赤に塗り替えられるのでもありません。
異なる色のまま混ざり合う。
その結果として生まれるのが紫です。
だから「むらさきいろ」は、どちらか一方が相手に合わせる恋ではありません。
「私」と「貴方」という別々の人間が存在したまま、二人でなければ生まれない新しい色を作っていく。
そんな関係性を象徴していると考えられます。
「愛することはむらさきいろ」とは?
普通、愛を色で表すなら赤を思い浮かべる人が多いでしょう。
しかし、この曲が選んだのは紫です。
そこには大きな意味があります。
赤だけなら、それは「私の愛」で終わります。
しかし紫になるためには、青が必要です。
つまりこの曲で描かれる愛は、
一人だけでは完成しないもの
なのです。
自分がどれほど強く愛しても、それだけでは紫にはならない。
相手という存在がそこにいて、二人の感情や時間が交わって初めて新しい色になる。
だからこの曲の「むらさきいろ」は、恋愛感情そのものというより、
二人の関係によって初めて生まれる愛の色
なのだと思います。
なぜ世界は「灰色」になってしまうのか
ところが、物語はずっと美しい色のまま進むわけではありません。
途中では世界が灰色に濁って見えるようになります。
ここには恋愛のもう一つの側面が表れているのでしょう。
愛する人ができるということは、その人によって幸福になれるということ。
同時に、
その人によって傷つく可能性も生まれる
ということです。
相手の気持ちが分からない。
以前と何かが違う。
自分だけが愛しているのではないか。
そんな不安が生まれた瞬間、それまで美しく見えていた世界は急に色を失ってしまいます。
最初の「無色透明」と、途中に現れる「灰色」は似ているようでまったく違います。
無色透明は、まだ何も始まっていない世界。
灰色は、一度色を知ってしまった人が、その色を失いかけている世界です。
だから後者の方が、ずっと苦しいのです。
「黒く染まる」が表しているもの
さらに感情が進むと、灰色の先に「黒」が見えてきます。
黒はここで、単なる悲しみではないでしょう。
相手を愛しているからこそ生まれる不安や疑い、孤独、執着。
そうした感情に飲み込まれてしまう危険を示しているように感じられます。
「好き」という気持ちは、本来とても明るい感情です。
ところが、その気持ちが強くなりすぎると、
「離れてほしくない」
「自分だけを見てほしい」
「もっと愛してほしい」
という欲望へ変わっていくことがあります。
愛と執着の境界は、思っている以上に曖昧です。
ドラマ『夫婦と16歳〜狂気の隣人〜』が扱うテーマを考えても、この危うさは重要でしょう。
「むらさきいろ」は、愛することの美しさだけではなく、その感情が人間を不安定にしてしまう瞬間まで描いているのではないでしょうか。
「青い薔薇」は何を意味する?
歌詞の中でも特に目を引くモチーフが「青い薔薇」です。
ここで重要なのは、単に薔薇の一般的な意味を当てはめるのではなく、この曲の中で「青」が何を表しているかです。
川西拓実の説明では、青は「青春、貴方」。
そう考えると、青い薔薇は、
愛する相手そのもの、あるいは相手との間にある理想的な愛
を象徴しているように見えます。
一度は失われたように感じた青。
しかし主人公は、その青がもう一度咲く可能性を捨ててはいません。
ここにあるのは、
「昔とまったく同じ関係には戻れないかもしれない。それでも、もう一度二人の間に何かを咲かせたい」
という願いではないでしょうか。
恋愛は、始まった瞬間のまま保存することはできません。
人は変わり、関係も変わります。
それでも季節が巡れば、新しい形でまた花が咲くかもしれない。
青い薔薇には、そんな希望が重ねられているように思えます。
「黄色い薔薇は受け取れない」の意味
終盤では「黄色い薔薇」という別の色が登場します。
ここで注目したいのは、主人公がすべての愛を無条件に受け入れているわけではないということです。
それまでの物語では、愛すること自体が非常に強く肯定されていました。
しかし最後には、
何でもいいから愛してほしいわけではない
という意志が見えてきます。
必要なのは黄色ではない。
赤だけでも、青だけでもない。
求めているのは、自分と相手が混ざり合った「むらさきいろ」です。
つまり主人公にとって重要なのは「愛される」という事実だけではありません。
誰に、どのように愛されるのか。
そこまで含めて初めて愛になるのです。
これは曲の終盤で主人公がたどり着く、大きな変化だと思います。
「一人では生きられない」は弱さなのか
この曲には、人間は完全に一人だけでは生きられないという感覚も流れています。
これは依存にも見えるかもしれません。
しかし、必ずしも弱さだけを表しているとは限りません。
誰かを必要とする。
誰かに愛されたいと思う。
自分以外の誰かによって救われる。
それは、人間にとってとても自然な感情です。
川西拓実も、この曲について人を愛することを「本能」と捉えています。
だから「むらさきいろ」は、自立した人間だけを理想として描く歌ではありません。
むしろ、
誰かを必要としてしまう不完全な人間を、そのまま肯定する歌
なのではないでしょうか。
ドラマ『夫婦と16歳〜狂気の隣人〜』との関係
「むらさきいろ」は、ドラマ『夫婦と16歳〜狂気の隣人〜』の物語を意識して制作されています。
川西拓実自身も、作品を読んだうえで楽曲を作ったことを明かしています。
だからこそ、この曲には普通のラブソングだけでは終わらない危うさがあります。
誰かを愛することは美しい。
けれど、年齢、立場、常識、周囲の視線など、現実にはさまざまな境界があります。
それらを越えてでも人を愛することは、本当に純愛なのでしょうか。
それとも執着なのでしょうか。
その答えを、この曲は簡単には決めません。
むしろ「愛することは本能だ」という視点から、人間が誰かを求めてしまう感情そのものを見つめています。
だから「むらさきいろ」は甘い恋愛ソングでありながら、どこか不安で、危険で、妖しい空気をまとっているのでしょう。
「むらさきいろ」は純愛の歌か、それとも執着の歌か
では、この曲が描いているのは純愛なのでしょうか。
それとも執着なのでしょうか。
おそらく答えは、
その両方
なのだと思います。
愛する人を大切にしたい。
一緒にいたい。
失いたくない。
ここまでは純粋な愛に見えます。
しかし「失いたくない」という思いが強くなればなるほど、そこには不安や独占欲が生まれます。
愛と執着はまったく別の感情なのではなく、同じ場所から生まれることがある。
赤と青が混ざり合って紫になるように、人間の感情も一つの名前では説明できません。
だからタイトルは「赤」でも「青」でもなく、複数の感情が混ざった「むらさきいろ」なのでしょう。
ひらがなの「むらさきいろ」である理由
もう一つ気になるのが、タイトルが漢字の「紫色」ではなく、ひらがなで「むらさきいろ」と書かれていることです。
これは公式に理由が説明されているわけではありませんが、ひらがな表記によって曲全体に柔らかさが生まれています。
「紫色」と書けば、どこか完成された色の名前に見えます。
一方、「むらさきいろ」というひらがなには、まだ形が定まっていない感覚があります。
赤と青が少しずつ混ざりながら、ゆっくり紫になっていく。
そんな曖昧さを残したタイトルにも感じられます。
愛もまた、明確に定義できるものではありません。
好き、寂しい、怖い、離れたくない、幸せになりたい。
さまざまな感情が混ざり合って初めて、一つの愛になる。
「むらさきいろ」という柔らかな表記は、そんな説明しきれない感情に似合っています。
まとめ|「むらさきいろ」は二人でなければ生まれない愛の色
MÁME(JO1)の「むらさきいろ」は、愛を「色」で描いた楽曲です。
川西拓実が示した、
赤=愛、私
青=青春、貴方
というイメージ。
この二つが混ざることで、紫が生まれます。
つまりタイトルの「むらさきいろ」とは、
私一人でも、貴方一人でも作ることのできない、二人の間にだけ生まれる色
なのでしょう。
物語の中では、世界は無色透明から灰色へ、そして黒へ染まりそうになります。
愛することは世界を美しくしてくれる。
同時に、愛する人がいるからこそ、不安にもなる。
それでも人は誰かを愛さずにはいられない。
そんな矛盾した人間の感情まで含めて、この曲は「むらさきいろ」と名付けているように思えます。
赤でもない。
青でもない。
美しさだけでも、狂気だけでもない。
二人の感情が混ざり合い、言葉では説明できない色になったとき。
そこに生まれるものこそ、この曲が描く「愛」なのではないでしょうか。

