【傘がない/井上陽水】歌詞の意味を考察、解釈する。

井上陽水という世界の原点

井上陽水が「アンドレ・カンドレ」というアーティスト名でデビューしたのが1969年、3枚のシングルを経て空白期間があり、1972年に井上陽水として「人生が二度あれば」で再デビューとなる。

「アンドレ・カンドレ」と「人生が二度あれば」の間には何があったのだろうか。
同郷・福岡出身であるチューリップと同様、ビートルズに心酔し歌手を志した青年、井上陽水のデビュー作「カンドレ・マンドレ」は不思議なサウンドを持った楽曲だった。
フォークとも、カントリーともつかないサウンドで、性急なようで浮遊感がある。
続くセカンドシングル「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」はゆったりとしたリズムと牧歌的なサウンド、美しいハーモニーの穏やかな歌だが、歌詞の世界観はやはりどこかサイケデリックかつ幻想的で、ビートルズの「リボルバー」あたりの影響を感じさせる。

当時のディレクターと相談した結果だろうか、結果的には「アンドレ・カンドレ」名義の最後のシングルとなった1970年発表のサードシングル「花にさえ、鳥にさえ」は短期間の活動を終えて解散したザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦と作詞家の松山猛によるもので、それまでの作品に比べ格段に「歌謡曲」のテイストが強く出ている。
ブラスを取り入れるなど新たな展開を見せたこの楽曲だが、陽水は「アンドレ・カンドレ」名義の歌手活動をここで終え、一年の空白を設ける。

その一年に何があったのだろうか。
チューリップを率いた財津和夫は上京にあたり、それこそ喧嘩腰で血の滲むような努力をメンバーに強いた。
陽水の覚悟も相当なものだったのだろうと推察する。
飄々としている井上陽水のパブリックイメージからはほど遠い、余裕のない、決死の覚悟で臨んだ音楽の道。
そうして生まれたのが父母に対する悲痛な思いを歌った「人生が二度あれば」そして孤独と絶望を歌った「傘がない」である。

井上陽水名義のデビューアルバムには「断絶」というネガティブなタイトルがつけられている。
それまでの牧歌的なイメージを切り捨て、孤独と絶望を歌うようになった井上陽水は闘争に疲れ、団結から孤独へとシフトしつつあった反戦・学生運動フォーク世代に熱狂的に受け入れられる。
このアルバムで確固とした個性を築いた井上陽水はさらにその世界を広げ、「夢の中へ」「心もよう」といったヒット曲を経て日本レコード史上初のミリオンセラーアルバムとなった金字塔「氷の世界」で黄金期を迎える事となる。

今回は井上陽水の原点であり、頂点の一つとも呼べる作品「傘がない」を考察してみたい。

インパクトしかない歌い出し

都会では自殺する若者が増えている

今朝来た新聞の片隅に書いていた

だけども問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ

つめたい雨が今日は心に浸みる

君の事以外は考えられなくなる

それはいい事だろう?

井上陽水の大きなバックボーンの一つがビートルズである事は前項でも触れたが、アンドレ・カンドレでの活動を経て陽水は様々な人物と出会い、影響を受ける。
後にフォーライフ・レコードを共に立ち上げる事になる小室等との出会いもその一つだろう。
バックバンド「六文銭」としてアンドレ・カンドレのレコーディングを努めた小室等は陽水にボブ・ディランを聴くといい、と助言し、陽水の作風にプロテスト(政治的抗議)・フォークの息吹が芽生える。
時代は安保闘争・全共闘の最盛期で、若者はこぞってフォークを聴き、団結して東大安田講堂を占拠するなど熱を帯びた活動をしていた。

行き過ぎた熱は悲劇を生む。
山岳ベース事件、あさま山荘事件などを引き起こした連合赤軍は学生運動の象徴として没落し、若者は行き場を見失う。
その後も革命を目指した数少ない左派を除き、大部分の若者は「個と個の繋がり」に救済を求めた。
団結から個へと時代はシフトした。
陽水はその空気を敏感に感じ取り、孤独と絶望に蝕まれながらも、それでも一握の温もりに縋ろうとする若者をこの「傘がない」で描いてみせた。

「都会では自殺する若者が増えている」という新聞の見出し。
幻想であった革命運動から離脱し、行き場を見失った若者を形容する一節からこの歌は始まる。
自殺した若者は、共に戦った仲間を象徴している。
しかし、それを読んだ若者はその見出しに心を動かさず、「雨が降っているのに傘がない」事に気を取られている。
もう既に、彼の心の中には全共闘も、共に戦った仲間も存在しないのである。
団結から個へ。
その時代の変遷を描いたこの歌い出しはあまりにもインパクトがあり、「学生運動の終結」を象徴した一節として若者の心を捉えたのではないだろうか。

政治的無関心と、全体主義から個人主義への変遷

テレビでは我が国の将来の問題を

誰かが深刻な顔をしてしゃべってる

だけども問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ

つめたい雨が僕の目の中に降る

君の事以外は何も見えなくなる

それはいい事だろう?

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

君の家に行かなくちゃ 雨の中を

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ

雨にぬれて行かなくちゃ 傘がない

二番の歌い出しは「彼」から政治的関心が失われていることが歌われている。
エンタープライズ入港や日米安全保障条約の締結といった「我が国の将来の問題」のニュース。
以前であれば、「彼」は強権政治に憤り、団結した抗議活動を考えたかもしれない。
しかし、「彼」の心からは既にその熱意は失われてしまっている。
抗議よりも、「君に逢いに行く」ことを考えている。
陽水は少し目線を外し、「それはいい事だろう?」と皮肉っている。

陽水の真意はわからない。
井上陽水というアーティストは数少ない例外を除いて、自分の気持ちをストレートに出すアーティストではないからだ。

(数少ない例外に「人生が二度あれば」がある。父母を想うあの歌は井上陽水という個人の気持ちを余すところなく表現した歌であると私は思う)

直接的な言及はないが、この「傘がない」の続きが後に発表された「最後のニュース」ではないかと思う。
戦争、環境、エネルギー、経済、コミュニケーション、様々な地球上の問題をあげつらって糾弾する「最後のニュース」はこう締めくくられる。

今 あなたに Good-Night

ただ あなたに Good-Bye

最後のニュース

ニュースを見ていると、問題は山積みにあるように思える。

しかし、陽水はここでも「抗議のための団結」ではなく「あなたという個」に目線を置いている。
人間が世界のために出来ることなどない、「我が国の問題」は「あなたの問題」ではない。
あなたの問題は戦争や環境ではなく、「雨が降っているのに傘がない」という、目の前にある現実なんだよ、と陽水は歌っているのではないだろうか。

もちろん、皮肉な陽水の事である。
もしかしたら「傘がない」なんてちっぽけな一個人の事など考えず、環境や平和について考え、行動し、団結しろ、と思っているかもしれない。
あるいは、そもそも政治について歌われた曲ではないのかもしれない。
その真意はわからないし、きっと井上陽水に聞いたところであのミステリアスな微笑みと共に煙に巻かれてはぐらかされてしまうだろう。
インタビューでは以下のように語られている。

(傘がないについて、学生運動の影響があるのかと問われ)

別に、そんなふうに考えて作った歌ではないんですよ。
ただ単に、周りが政治の季節であったというだけのことで・・・

井上陽水の真意はわからない。
それはこの曲に限らず、他の楽曲に関しても。

そして、人々は戸惑い、魅了される。
時には毒であり、時には薬にもなる井上陽水という世界がデビュー以来人々の心を捉え続けているのは、得体の知れないその世界が多様な解釈の余地を残していて、様々な仮説の一つ一つが井上陽水というアーティストを彩るアクセサリーとなっているからである、と私は考える。
だから陽水は断言しない。
否定もしないし肯定もしない。
私たちに解釈を委ね、自らを彩ってくれる事を期待してミステリアスな世界を描き続けているのではないだろうか。

ただ一つ言えることは、特にこの「傘がない」を発表したあたりの陽水はまさに「鬼気迫る精神状態」であったのだろうという事である。
アンドレ・カンドレから井上陽水へ。
故郷を捨て、医者になってほしいという親の想いを引きちぎり、ビートルズフリークの青年は一人の「鬼」となった。

そうして生まれたこの「傘がない」。

井上陽水という世界を語る上で決して外すことのできない作品である。