【きみしかいない/たま】歌詞の意味を考察、解釈する。

たまの楽曲はしばしば寂しさを感じさせます。
YouTubeやブログの反応を見ると、たまの音楽は多くの人々に幼少時代の思い出を呼び起こすようです。
私は、昭和の雰囲気はあまり実感がありませんが、確かに知久さんの曲には幼少時代の寂しさを表現したものが多いように思います。
その中でも、『きみしかいない』という曲は特に深い寂しさを感じさせるものです。


知久さんの歌詞は『子供の視点』が一つのキーワードとなっています。
石川さんが様々な少年時代のトラウマや、不自由さ、従うことへの無力さを歌っているとしたら、知久さんはもっと抽象的に、幼少時代に感じた不思議な戸惑い、自分でもわからない自分への気持ち、をぼんやり歌っているように感じます。
子供の視点で書かれた歌詞ならば、解釈する際も子供の視点でできるだけ考えていく。
シンプルな発想ですが方法論として悪くないように思えるので、それを意識して進めていきましょう。


最終避難場所のともだちとキスをして
トカゲの棲む公園をあとにした

曲の冒頭にイントロがなく、最初から歌が始まり、最初に耳に入ってくる言葉は『最終避難場所』です。
この歌い出しは非常に印象的で、他に類を見ないものと言えるでしょう。
しかし、一体『最終避難場所』とは何を指しているのでしょうか。

この歌詞の主人公は、仲間たちと共に最終避難場所に避難した後、なぜか友達とキスをした後にその場所を「後にする」行動をとります。
最終避難場所として設定されている場所から離れる理由は不明ですが、彼らが向かう場所は図書館です。

きみのあたまは誰かのいたづらでもうこわれちゃってるから
図書館のガラスを割って這入る

ここは詳細な説明が難しいです。
知久さんの歌詞は、『あたまのふくれたこどもたち』や『電車かもしれない』などで見られるように、抽象的でありながらも時折直接的な表現が含まれています。
「誰かのいたづらでもうこわれちゃってるから」という表現も、詳細な説明を試みると複雑になります。
ここでは、読者の皆さんにその意味を各自で感じていただきたいと思います。

次に、図書館のガラスを割って侵入する部分は、そのまま理解しても問題ありません。
ここでの「這入る」は「入る」とほぼ同義であり、古語的な表現であると言われています。
知久さんは「らんちう」や「電柱(でんちう)」などで古語的な表現を頻繁に使用することがありますので、これも特別なことではないでしょう。


誰もいないから
きみしかいない
誰もいないから
ぼくの言うこときこうね

誰もいないことは、当然のことのように感じます。
なぜなら、この周辺にいるすべての人々は「最終避難場所」に集まっているからです。
したがって、図書館にいるのは正確に言えば「きみ」だけです。
しかし、そう考えると一瞬考慮すべきことが生じます。
それは、「ぼくの言うこときこうね」と諭す「ぼく」は一体誰なのでしょうかという点です。
こう考えてみることもできます。
「きみ」と「ぼく」は、実は同じ人物によるものであり、この歌はずっと自分自身に対して語りかけている歌なのかもしれません。
なぜなら、「きみ」以外には誰もいないのですから、「ぼく」という別の存在が登場するのはやや奇妙に思えます。


ずぼんにしみついたさばの缶詰の匂いが大嫌いで みんなの待つ公園を爆破した
不自由な身体のきみとあそびながら
地下室で見つけた火薬の本

この中での「きみ」も、自身の視点で考えることができます。
しかし、この曲が寂しさを感じさせる理由は、単に夕焼けが沈むような曲調だけではなく、この曲が絶えず「自分自身を嫌いで仕方ない」と歌っているからです。
歌詞の中に登場する「ずぼんに~大嫌いで」のフレーズは、その象徴的な部分で、こどもの視点でこの状況を考えると、さばの缶詰の匂いがズボンについているのは嫌だし、周りからからかわれるのは怖いと感じるでしょう。
それがいじめや孤立につながり、家庭の状況まで悪化させる可能性があるかもしれません。
集団に属する子どもとしては、この状況は本当に嫌で仕方ないはずです。
そして、次の歌詞で公園を爆破してしまうという驚くべき出来事が起こります。
最終避難場所から「きみ」以外の誰も離れなかったため、「みんなの待つ」ことは当然のことです。
友達がいたはずなのに、なぜ公園を爆破してしまったのか、疑問が残ります。
この瞬間、主人公は本当に「ひとり」になってしまうのです。

誰もいないから
きみしかいない
誰もいないから
きみがこの世でいちばん

一番の「誰もいないから きみしかいない」と、二番の「誰もいないから きみしかいない」は同じ歌詞ではありますが、全く異なる意味を持っています。
図書館には誰もいない、というだけでなく、もはやみんなが亡くなってしまって、「きみ」の周りには誰もいない、この地域に住む人々ももう存在しない、本当の孤独を表現しています。


もし「きみ」が「ぼく」であるなら、「不自由な身体のきみとあそびながら」とはどのようなことを意味するのでしょうか。
「鏡に映っている自分に話しかけている?」といった感じかもしれません。
つまり、自分自身との「ひとり遊び」を指しているということです。
この情景を想像すると、確かに寂しさを感じることでしょう。
また、よく考えてみると、「あたまがこわれてる」「不自由な身体」といった表現、さらに後の歌詞での「ぶす」という自己卑下の言葉が多く登場します。
たとえば、さばの缶詰の話も、結局はその匂いのついたズボンを履く自分が嫌であることを表現しています。
さらに、最初のサビで「ぼくの言うこときこうね」と歌っている部分も、「人のいうことを聞けない自分」への悲しみを表しているかもしれません。
この「きみ」は自己を嫌悪しているようです。
その原因は、周囲の人々からの言葉にあるのかもしれません。
しかし、自己評価が低い「きみ」は、周囲からの批判を受け入れてしまい、それが自己評価の低下につながったのかもしれません。
その結果、自分の気持ちを理解できないままに、爆破という暴走行為に至ったのかもしれません。
この行為は決して故意ではなく、周囲を「ともだち」と呼びながらも、彼らが耐え難い存在と感じたために起こったもので、憎んでいるわけではないのかもしれません。


公園を爆破した『きみ』。

しかし、それは簡単にはできないことです。
爆弾を使っても、どんな手段を使っても、最終避難場所として選ばれたような広大な公園を爆破するには、一般の人ができるものではありません。

では、『きみ』はその技術をどこで手に入れたのでしょうか?
その疑問に対する答えは、すぐに提示されます。
それは地下室で見つけた火薬の本でした。

恐らく、この地下室は、図書館の地下室であると考えられます。
しかし、この考え方には時系列的な矛盾が存在します。
歌詞の流れでは、火薬の本を見つけたのは「公園を爆破した後」です。
しかし、火薬の本を既に見つけていなければ、公園を爆破する技術を持っているはずはありません。
ここだけが時間的に前後が逆になっているのではないか、と考え込んでしまいます。

そこで、思い切った仮説を提案してみます。
ここまでの描写はすべて、『きみ』の願望を反映させた「ひとり遊び」の表現であったのかもしれません。


実は、みんなが避難している理由についても、考えてみる価値があります。
その理由を探るための鍵となるキーワードは、「さばの缶詰」だと私は思います。
缶詰食品が日本で急速に普及したのは、第一次世界大戦後であり、特に関東大震災の影響が大きかったと言われています。
もし、その時代を考えてみると、みんなが避難した理由は戦争か震災、あるいはその両方の影響が考えられます。
そして、歌詞に登場するような火薬などの危険な言葉が含まれていることから、今回は「戦争による避難」の視点で話を進めてみましょう。
こういったシナリオを考えてみましょう。
ある日、街が攻撃の脅威にさらされ、みんなが「最終避難場所」に集まります。
しかし、馴染めない「きみ」または「ぼく」は、公園を出て図書館へ向かいます。
ただし、今日は誰もいないため、図書館は閉まっており、仕方なくガラスを割って中に入ります。
その図書館の地下室で、「火薬の本」を何度も読んでいたのです。
それを読んで、「全てが爆発して消えてしまえばいいのに」という考えが浮かんだかもしれません。
しかし、その考えは漠然としており、具体的な恨みや爆破の意図は持っていませんでした。
また、単に火薬の本を読んだだけでは、公園を爆破する能力は持っていないため、実際には爆破しなかったかもしれません。
このような仮説を提唱してみました。
しかし、これによって今までの話を完全に否定するわけではありません。
実際には「きみ」自身は公園を爆破したと信じている可能性があります。
考え方を変えることで、時系列の倒置も説明可能かもしれません。


公園を爆破した後、『きみ』が火薬の本を見つける瞬間。
この時系列の流れは、物語の中心人物である『きみ』の視点から見ると、実は矛盾していないと考えることができます。
公園から離れて図書館に入り、ひとり遊びをしている最中に、いつも読んでいた火薬の本を見つけたのです。
その瞬間、公園の爆破音が遠くから聞こえてきたと仮定してみましょう。
遠くにいるため、爆破音は少し遠くのものとして聞こえます。
実際にこの音源を聴いてみれば、その爆破音は、目の前で起こっているような音よりも、遠くから聞こえてくるようにミックスされていることがわかります。
火薬の本を読みながら、無意識に「全てが爆発することを願っていた」『きみ』が、実際に爆発音を聞いた場合、自分が公園を爆破してしまったと勘違いしてしまう可能性があるのは不思議ではありません。
妄想が現実になってしまったと感じるのです。
しかし、その爆破は、実際には最終避難場所への攻撃で、『きみ』は何の関与もなかったかもしれません。
しかし、自己評価が低い『きみ』にとって、自分を追い詰める事実となってしまいます。
自分が誰もいなくなってほしいと思っていたことが現実になり、それが彼にとって苦痛となるのです。


二番に入ると、「誰もいないから きみがこの世でいちばん」という歌詞が登場し、その後に間奏が続きます。
この間奏は、非常に寂しさを感じさせ、同時にリスナーにとっても疑問が湧きます。
「この世でいちばん……」とは一体何なのか?
何が最も特別なのか?
という疑問が頭をよぎります。
そして、その疑問の答えは、間奏が終わりに近づいたところで明らかにされます。

誰もいないから
きみしかいない
誰もいないから
きみがこの世でいちばんぶす

この歌詞は非常に衝撃的です。
ただし、「ぶす」という言葉を不快に感じないでください。
この歌詞は、その言葉に特別な意味が込められているのです。
それは「誰かに対して」ではなく、むしろ「自分自身に」言っているのです。

この歌詞では、「誰もいないからいちばんぶす」というフレーズが使われています。
この言葉は、他人との比較ではなく、自己評価に関連しています。
誰もいないから、比較する相手がいないから、自分が「いちばんぶす」と感じているのでしょう。
この「ぶす」とは、外見だけでなく、精神的な側面も含むかもしれません。
しかし、この歌詞からわかるように、この「きみ」は自分自身を本当に嫌っているわけではありません。

実際、自分を嫌いになりきれない部分もあることがこの歌詞からうかがえます。
自分を嫌いである一方で、自分を気にかけることができるのは、実は自分を愛したいからかもしれません。
この歌は、自己愛についても歌っているのです。

「こんな自分だけど、こんな自分を愛したい。」
最後に、「みんなを爆破してしまった(と思い込んでいる)『きみ』」は、このように歌います。

誰もいないから
しょうがないよ
誰もいないから
ぼくらがいるのはずるいね

この歌詞では、「みんなを死なせてしまった自分が、ここにいることは『ずるい』」と表現されています。
しかし、「いちばんぶす」であることや「ずるいから消える」ことに対して、ある程度の納得もしていないわけではありません。
この歌詞は、コンプレックスを抱えながらも、自分を愛したい、肯定したいという気持ちを持っていることを示しています。
ここには、併存している「きみ」の心の中の複雑な感情が表現されています。

最後の歌詞を歌い終わると、この曲は急速にフェードアウトしていきます。
通常はもう少し音楽を続けて余韻を残すことが多いですが、この曲はあっという間に終わります。
この急速な終了は、歌詞の中で「みんなと一緒に終わろうとしている決断」をより明確に表現しているように感じられます。


「なっちゃう」という言葉には、「そうなることを別に望んでたわけではないが、そうなってしまった」というニュアンスが含まれているように思えます。
知久さんの歌詞にはこのような表現がよく見られ、それが感情や状況の深刻さを表現しています。

「コンプレックスと自己愛の間で、もう戻れない状況になってしまい、自分をずるいと歌う」この曲は、確かに「必ず寂しくなっちゃう自己肯定」というテーマを探求しているように感じます。
この曲は自己肯定感を探りつつも、どうしても寂しさに取り囲まれてしまうことを表現しています。

「自己愛」に焦点を当て、自己肯定感について歌っている点は、現代の音楽でも共通のテーマとなっています。
しかし、1991年当時、堂々としたラブソングが多かった中で、この曲が自己愛に焦点を当てたことは特別なことであり、その独自性が今でも魅力的です。
若い世代にも、この曲の存在を知ってもらいたいと思います。