【風をあつめて/はっぴいえんど】歌詞の意味を考察、解釈する。

「日本語のロック」の元祖

「日本のロック」と「日本語のロック」は違う。

いわゆる流行歌・演歌・歌謡曲でないサウンドが初めて日本のミュージックシーンにおいて表舞台に立ったのはおそらく1950年代のロカビリーではないかと推察する。
エルビス・プレスリーの「監獄ロック」や「ハウンド・ドッグ」をアレンジし、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎のロカビリー三人男らが出演した日劇ウエスタンカーニバルあたりが「日本のロック」の原点ではないだろうか。
ただ、この時点の楽曲はエルビス・プレスリーやニール・セダカといった海外の作品を日本語に翻訳したり、あるいは英語でそのまま歌ったりと言った作品が多かった。

日本人によるロックはその後、職業的作曲家が作曲し歌手が歌う形の提供ものや、加山雄三のようにザ・ベンチャーズの模倣を歌謡曲として発表する形に移行し、グループ・サウンズ全盛期へと時代は突入する。
ザ・スパイダースやザ・タイガースといったバンドがアイドル的な人気を獲得。
しかしこの段階でも楽曲はビートルズやベンチャーズ、ローリング・ストーンズといった海外のバンドの模倣というレベルから脱却できておらず、また職業的作曲家がポピュラーミュージックの一つとして歌謡曲に近いものを制作していたに過ぎず、オリジナリティを持った日本語のロックの登場はその後フォークの隆盛を待つことになる。

誰かの作った普遍的な物語ではなく、アーティスト自らのパーソナルな感情を歌詞にした楽曲の始まりは諸説あるだろうが、フォーク・クルセダーズが最初期のアーティストの一つではないだろうか。
また、アンダーグラウンドシーンではジャックスが「からっぽの世界」を発表し、そのサイケデリックな世界は日本語のロックの原点の一つだろう。
その後フォークは楽曲の提供を受けない自作自演の形へと移行し、高石ともや、岡林信康といった日本のフォークのレジェンドが登場する。

そのフォークのレジェンド、岡林信康のバックバンドを努めたのがまだ結成して間もない「はっぴいえんど」である。
はっぴいえんどは岡林信康や高田渡、遠藤賢司といったフォーク・アーティストがロックへと移行するタイミングで彼らのバックバンドを努め、新人離れした演奏で彼らの新たな扉を開いた。
また、はっぴいえんど自身も楽曲を制作し、その歌詞はそれまでの歌謡曲とも、主に反戦・反差別などのメッセージが込められたフォークとも違う「日本語のロック」の元祖と呼べるものであった。

はっぴいえんどのメンバーはその後ティン・パン・アレー、YMOを結成することになるベースの細野晴臣、プロデューサー、レーベル主宰者としても活躍したボーカル・ギターの大瀧詠一、細野晴臣と共にティン・パン・アレーに参加し松任谷由実をはじめ数々の作品に参加したギターの鈴木茂、そして作詞家として松田聖子をはじめ、1970年代から数えきれない名曲を生み出した作詞担当、ドラムの松本隆で構成される。
バンドの楽曲は作曲こそ大瀧詠一、細野晴臣、ときどき鈴木茂といった感じでばらつきがあるものの、作詞に関してはほとんどが松本隆によるものである。
「です」「ます」調にダブル・ミーニングや物語ではない詩世界を描き出した歌詞はそれまでの日本のミュージックシーンにおいて類を見ないものであり、まさにこのはっぴいえんどが「日本語のロック」の元祖であるというのは衆目の一致するところであると私は思う。
グループ・サウンズに代表されるそれまでのロックは「日本のロック」であり、はっぴいえんどこそが例えばその後のユニコーンであったり、キリンジであったり、フレデリックであったり、くるりであったりと言った「日本語のロック」の元祖なのである。

今回はその、はっぴいえんどの代表曲の一つである「風をあつめて」を考察してみたい。

舞台は1964年頃の東京

街のはずれの 背のびした路次を

散歩してたら 汚点だらけの

靄ごしに 起きぬけの露面電車が

海を渡るのが 見えたんです

それで ぼくも風をあつめて

風をあつめて 蒼空を翔けたいんです

蒼空を

とても素適な 昧爽どきを

通り抜けてたら 伽藍とした

防波堤ごしに 緋色の帆を掲げた都市が

碇泊してるのが 見えたんです

それで ぼくも風をあつめて

風をあつめて 蒼空を翔けたいんです

蒼空を

人気のない朝の 珈琲屋で

暇をつぶしてたら ひび割れた

玻璃ごしに 摩天楼の衣擦れが

舗道をひたすのを見たんです

それで ぼくも風をあつめて

風をあつめて 蒼空を翔けたいんです

蒼空を

「風をあつめて」は松本隆が作詞し、細野晴臣が作曲した。
大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂と複数のボーカルが存在するはっぴいえんどだが、この楽曲は作曲を担当した細野晴臣がボーカルを執っている。
平坦で感情があまり込められていない歌唱はどこか乾いたこの楽曲によくマッチしている。
インタビューによると元々この歌詞は松本隆が以前に書いたもので、細野が「風をあつめて」というフレーズを気に入り曲をつけたものなのだそうだ。
曲を聞いた松本隆はまた少し歌詞を変える。
そんなことを繰り返していたらレコーディングの当日になってしまい、歌のメロディは当日、スタジオの廊下でようやく完成した。
ドラムは松本隆によるものだが、楽曲が完成していなかったので大瀧詠一と鈴木茂はレコーディング当日に呼ばれず、結局マルチプレイヤーである細野晴臣がドラム以外のすべての楽器をを演奏した。
「あれははっぴいえんどじゃなくて、ほとんど細野さんのソロ」とは松本隆の語るところである。

歌詞には松本隆の言葉遊びが散見される。
「路地」は「路次」になっているし、「汚点」を「しみ」と読むことはない。
その他にも「朝爽(あさあけ)どき」というのは松本隆の造語だろうし、「伽藍とした」は当て字で、「碇泊」「素適」といった単語は今日ではあまり使われることのない言い回しである。
「玻璃」は「はり(ガラスの意)」と読むのが正解だが、松本隆は読みを飛び越えて「ガラス」と読ませている。
どのフレーズもどこか幻想的で詩的なニュアンスを持ち、それでいて1964年、東京オリンピックの頃の東京という街がなんとなく見える歌詞である。

東京のどこを指しているのか、については「浜松町・大問の路地」「月島・佃島」あたりであると松本隆は答えている。

「背伸びした路次」というのは、浜松町1丁目。
大門とかその辺りに江戸の面影を残した狭い「路次」があって。
その路次を抜けると、パッと海が広がる。
その感じなんだ

月島とか佃島へ行くと、隅田川越しに東京がニューヨークの摩天楼のように見えるポイントがあるんですよ。
あのあたりから東京を眺めていると、ふだんはあの中でチマチマ生きててつまんないんだけど、 ちょっと離れて見てみるときれいな街なんだなあ、と思えてくる

1964年当時は東京オリンピックの開催と共に日本が高度経済成長期を迎え、あらゆる産業が活発に成長していく時期である。
その後問題となった光化学スモッグも当時は規制されず、「靄」となって街を汚す。
そんな街も「ちょっと引き」の構図で見るときれいな街なんだなあ、と珈琲を飲んだり朝の防波堤を散歩したりする青年は感じる。

こういった表現はそれまでの歌謡曲や流行歌にはない表現であった。
寂しい、悲しい、嬉しい、楽しい、そのどれともつかない感情を初めて音楽に乗せた楽曲、それがこの「風をあつめて」ならびに収録アルバムであり日本語ロックの金字塔とも呼べる「風街ろまん」ではないだろうか。

多くのアーティストがこの「風をあつめて」をカバーしている。
牧歌的なメロディとちょっと寂しいような歌詞はカバーアーティストによってその色を変え、様々な「風をあつめて」が今日では聴ける。

しかし、やはりオリジナルである。
歌に登場する青年は松本隆か細野晴臣か、どこか茫洋としているけれど鋭く時代を見つめる青年の姿こそこの楽曲に最もマッチした姿ではないだろうか。

この楽曲なしに、今日の日本語ロックは語れない。
それほどまでに重要な楽曲の一つである。

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