あらすじ
朝日高校の卒業式の日。
3年生たちが教師を「卒業リンチ」しようと追いかける一幕が、屋上から見下ろす6人の生徒たちの目に留まった。
この6人は校内で知られる「ワル」グループで、その中心には九條がいた。
彼の幼なじみである青木や、学ランの下に赤いシャツを着た大田、眼鏡をかけたユキオ、使い古された服を身に纏った吉村、そして野球部のキャプテン、木村も一緒にいた。
新しい学期が迫る中、彼らは校内の思い出を胸に、屋上で記念写真を撮ることにした。
そして、3年生の春。
青い空の下、校庭には満開の桜が咲き誇っていた。
学校で最も高い位置にある2階建ての屋上には、さらに小さな2階があり、その2階に上がるためのコンクリートの壁には黒いインクで「しあわせなら手をたたこう」という言葉が落書きされていた。
この学校に古くから伝わる遊びがある。
それは、屋上の柵の向こうにクの字型に立ち、柵から手を離した間に何度手をたたけるかを競うもので、まるで度胸試しのようなゲームだ。
この競技の勝者には学校を牽引する権利が与えられるとされている。
一度でも失敗すれば、柵の外から校庭に身を投げ出すことになる。
勇気が試される瞬間であり、その命運を握るのは自分自身だ。
九條はこの競技で8回も手をたたくことに成功し、学校を仕切る地位を手に入れた。
しかし、彼自身はそれに全く興味を持っておらず、学校のリーダーシップには無関心だった。
九條にとっては、それはどうでもいいことだった。
だが、青木は徐々に九條の無気力さに苛立ちを感じるようになっていった。
2人の間にはすれ違いが生じ、次第にその関係が変わっていくのだった。
無気力な九條
普通ならば青春時代と称される、若さあふれる日々を謳歌すべき高校生たちの情熱的な時間。
しかしそれを意図的に「陰鬱な」ものとしようとする彼らの姿勢。
退屈な毎日、未来の先に広がる見通しのなさ、無気力と向き合う不安やイライラ。
昔の不良とは異なり、彼らは一見真面目な高校生に映る。
髪を派手に染めたり、リーゼントを作ったりするわけではなく、制服も整然と着こなしている。
彼らは外見だけの見栄えではなく、内心で退屈を感じている青年たちだ。
しかしながら、興味深いことに、学校に対する愛情が彼らの中に宿っている。
校内の屋上はまさにその楽園であり、そこで楽しむ危険な遊びは伝統的なリーダーシップの儀式として行われている。
しかしながら、九條にとってはそれは単なる退屈しのぎに過ぎない。
その儀式を制覇しても、特別に変わることはなかったのだ。
なぜ九條が強いかを青木は理解している
2年生のレオが九條にベランダゲームの対戦を提案した際、九條ははっきりと彼に言い放った。
「キミにはできないよ」。
九條の勝利は、彼が大胆な勇気を持っていたからではなく、むしろ「無気力」だったからこそ成し遂げたものだった。
レオは上を目指す闘志に燃えていたが、3年生に挑戦しようとするその意気込みでも、このゲームには打ち勝つことはできないだろう。
一方で、九條は何も失うものがないと感じており、この危険なゲームさえも無関心で臨む。
その無感情さこそが、彼の強さの源だ。
この真実を、他の誰よりも鋭く認識していたのが、青木だった。
青木は何を伝えたかったのか
九條の無気力な態度にはイライラしながらも、同時に彼が絶対的な存在であることを青木は理解していた。
九條がそうした存在であるために、青木は彼にその力を見せつけてほしかったのだろう。
目に見える形で実感できるものを求めていたのだ。
しかしながら、九條からの反応が変わらないことに、青木はとうとう怒りを爆発させてしまった。
髪型を変え、2年生を仲間に引き入れて九條に立ち向かおうとした。
その行動が示す絶望的な気持ちが、痛ましいほどに伝わってくる。
シンプルなデザインの校舎が、一つの形として佇んでおり、その屋上からはグラウンドと校門が一望できる。
逆に、校門からは校舎全体とその屋上の柵が視界に入る。
物語のクライマックス、ラストの場面で、九條はひとり屋上の2階に立つ青木の姿を見つける。
しかしその瞬間、青木の姿が映し出される前に、スプレーで真っ黒に塗りつぶされた校舎の壁の絵がショットされる。
この瞬間、九條は驚きと共に、心がざわめいた。
青木が誰よりも「黒く」なりたがったその想いが、青木の最後の絶望的な叫びが、九條には明確に「映し出された」のだった。
青木は九條を凌ぐことを意図して行動したわけではなかったと考えられる。
むしろ、その行為は九條への絶望、あるいは自己への絶望の表れと言えるだろう。
それはまるで自殺に近い行為とも言えるものだった。
彼の名前には「青」が含まれているが、彼自身は「黒」の観念に囚われていた。
その心情は胸を締めつけるものがある。
夜の闇から夜明けの空、そして太陽が昇る青空までを見届けた後、彼はこの世を去った。
この行為が九條への謝罪だったのか、最後に見せた怒りの形だったのか、彼の真の意図は解読し難いものである。
その暗い絶叫を目撃した九條は、この瞬間に初めて「感情」を露わにする。
唯一の友人、青木を失わないよう必死で屋上に駆け上がる。
走りながら、彼は過去を回想する。
1年前の卒業式、あの日の記念写真、フェンスの前で振り返った九條の姿、そして青木の表情。
その時、彼が無言で伝えたメッセージが今になってやっと理解できたように感じられた。
しかし、それは遅すぎた。
屋上のコンクリートには、黒い影が残されている。
九條が何気なく机に描いたスプレーの絵。
それは、青木にとっては最後の「黒い記号」だった。
九條の花だけがきれいに咲いた
「先生、咲かない花もあるんじゃないですか?」
「花は咲くものです。枯れるものではありません。」
用務員の花田先生は、九條、青木、そしてユキオの3人に、それぞれが育てるチューリップを手渡した。
九條は言葉を投げかけた。
「どうせ咲かないよ」
彼は自分が咲かない花のような存在だと考えていた。
あるいは、意図的に咲きたくないと思っていたのかもしれない。
「黒い花が咲くかもね」
ユキオがそう言って育てた花は、残念ながら咲くことなくしぼんでしまった。
青木の花もまた成長しなかった。
皮肉なことに、九條の花だけが美しく咲き誇っていた。
心にある影を巧妙に表現した作品
物語の最後に現れる1枚の写真。
それは信じがたい写真だった。
あの日、晴天の青空の下、屋上で記念写真を撮影しようとした際、カメラを避ける九條が進んでカメラ役を引き受けた。
そのため、写真には九條以外の5人が写っているはずだった。
しかし、最後の写真には九條が中央に、そして青木も映っていた。
亡くなった大田も、警察に捕まったユキオも、野球の夢に敗れてヤクザの道を選んだ木村も、使い古された服から一変し不思議な魅力を放つ吉村も、みんなが写っていた。
仲間たちを失った今、九條の鈍感な心に、何か温かな感情が生まれたのだろうか。
次に訪れる春を迎える際、彼らはあの出来事からどのように変わったのだろう。
この映画はPG指定を受けていなかったが、その結末はある種の衝撃を伴っており、R-12指定も適切であると感じられるかもしれない。
しかし、いずれにせよ映画には指定が付いていなかった。
『青い春』は非常に洗練された作品だ。
作品が伝えようとするのは、心の奥底にある影。
青春時代における彼らの暗い側面を浮き彫りにしている。
印象的だったのは、一般的に暴力描写とされるシーンが、まるで石を飛び越えるかのようにカットされている点(正確には演出によって)。
ケンカやリンチが起こりかける「事の発端」から、その出来事の結末につながる場面への切り替えが行われている。
つまり、「ボコボコにされている」という場面がカットされており、代わりに「ボコボコにされた姿」が画面に映し出されている。
これはある意味で4コマ漫画のようであり、それがここでは非常に巧妙な手法となっている。
ただし、唯一の例外として、青木が2年生を激しく責める場面があるが、ここでは2年生の姿は映し出されず、むしろ焦点は九條の行動よりも、青木の複雑な感情が表現される点に置かれている。
このシーンは、青木が九條を見守りながらも、苦悩と怒りを抱えていることを表現している。
全体として、この映画は非常に巧みな表現を持つ作品だと思う。