東京事変の「女の子は誰でも」は、冒頭の〈女の子は誰でも魔法使いに向いている〉という強い言い切りから、一気に聴き手の感覚をさらっていく楽曲です。恋をすると、昨日までの常識がふいに書き換わってしまう。怖いのに、なぜか前へ進めてしまう——この曲が描く“魔法”は、そんな心の現象そのものに見えます。
一方で歌詞には〈最初に覚えた呪い(まじない)〉という言葉も登場します。魔法と呪い。祝福と足かせ。相反するものが同じ場所に置かれているからこそ、「女の子は誰でも」は甘いだけのラブソングでは終わりません。無防備になること、過去を脱ぐこと、関係を確定させるような〈いますぐにここでキスして〉の衝動——そのすべてが、きれいごと抜きのリアルとして響いてきます。
この記事では、タイトルの「誰でも」が示す射程、〈ぜんぶ脱いで〉や“ヴァージン”の意味、そして英語パートが残す余韻までを丁寧に読み解きながら、「女の子は誰でも」が最終的に肯定しているものを考察していきます。
- 楽曲の基本情報:両A面シングル/アルバム『大発見』/CMタイアップ
- “女の子”という呼称の狙い:成熟と無垢のあいだ(椎名林檎の言葉から)
- 冒頭「女の子は誰でも魔法使いに向いている」—“言葉以前”の感覚が示すもの
- 「ぜんぶ脱いで」と“ヴァージン”—無防備になる勇気とリスタート(資生堂オーダーの背景)
- 「最初に覚えた呪い(まじない)」とは何か:恋のスイッチ/自己暗示/口癖の効力
- サビの「お願い、いますぐにここでキスして」—衝動を“命令形”に変える瞬間
- ラストの英語パートをどう読むか:paradise / love songs が示す“甘さ”と“危うさ”
- アレンジの鍵:服部隆之参加で生まれた“ショー”の質感と高揚
- まとめ:「女の子は誰でも」が最終的に肯定しているもの(“誰でも=あなた”へ)
楽曲の基本情報:両A面シングル/アルバム『大発見』/CMタイアップ
「女の子は誰でも」は、両A面シングル『空が鳴っている/女の子は誰でも』に収録された楽曲で、2011年5月11日にリリース。もともと2月発売予定だったものが延期され、5月に発売日が確定した流れがあります。
また本作はタイアップ色が強く、M2「女の子は誰でも」は資生堂 マキアージュのCMソングとして起用(本人出演CMとして展開)。一方、同シングルのもう片面は江崎グリコ「ウォータリングキスミントガム」CM曲、という“CMで先に耳にした人が多い”タイプの導線です。
この前提を押さえると、歌詞の「強い言い切り」「短い尺の中で場面が切り替わる感じ」が、CMサイズにも耐える“瞬発力”として設計されている――という読みが立ち上がります。
“女の子”という呼称の狙い:成熟と無垢のあいだ(椎名林檎の言葉から)
ポイントは、「女」でも「女性」でもなく「女の子」と言い切っているところ。年齢・属性のラベルというより、**ある“状態”や“心の型”**を指している可能性が高いです。
たとえば歌の中の主人公は、理屈よりも先に“感じてしまう”。そして感じた瞬間、世界の見え方が変わる(=魔法がかかる)。このときの「女の子」は、未熟さではなく、むしろ変化に感応しやすい感性の象徴として機能します。
さらに公式ライナーノーツやインタビューでは、映像・心情のイメージから一人称や瞬間を組み立てた、という趣旨が語られています。
つまり本曲は「誰か特定の女の子」ではなく、“そういう瞬間を生きる人”全般を射程に入れている。タイトルの「誰でも」が、単なる優しさではなく、対象の拡張=普遍化の装置になっています。
冒頭「女の子は誰でも魔法使いに向いている」—“言葉以前”の感覚が示すもの
冒頭のメッセージは、この曲の取扱説明書みたいなものです。ここで言う“魔法”は、超能力ではなく、
- 目の前の現実を「別の意味」に塗り替える力
- 自分の気持ちを、怖いのに前へ進める力
- 相手との距離を、一気に近づけてしまう力
みたいな、**恋愛や自己変容で起きる“認知の飛躍”**を指していると読むのが自然です。
面白いのは、“向いている”という言い方。才能の断定じゃなく、適性=生まれつきの傾向として置いている。だからこの曲は、主人公の行動を「良い/悪い」で裁かない。むしろ「そうなってしまうものだよね」という、肯定と諦観が混ざったトーンで進みます。
「ぜんぶ脱いで」と“ヴァージン”—無防備になる勇気とリスタート(資生堂オーダーの背景)
歌詞の中で“脱ぐ”は、服の話で終わりません。むしろ、
- 見栄
- 強がり
- 過去の失敗の鎧
- 「こう見られたい」という演出
そういう外側を剥いで、素の自分で勝負する宣言に聞こえます。
そして“ヴァージン”は、経験の有無ではなく、今ここで新しく始め直すための状態として使われている印象。いったん全部リセットして「最初の私」に戻る。恋の始まりには、いつもこの“怖いのに戻りたい場所”がある、というリアルさがあるんですよね。
なお本曲が資生堂 マキアージュCM曲として決まっていたこと、そして“短編映画を観たような充実感”という公式側の言語化があることも、この「脱ぐ=再起動」という読みを後押しします。
「最初に覚えた呪い(まじない)」とは何か:恋のスイッチ/自己暗示/口癖の効力
“呪い/まじない”って言葉は、基本的に中立です。祝福にもなるし、足かせにもなる。ここでの「最初に覚えた」は、かなり重要で、たぶん正体はこういうもの:
- 子どもの頃から刷り込まれた「女の子はこうあるべき」
- 恋の場面で覚えてしまった“勝ち筋”の口癖
- 傷つかないために身につけた振る舞い(でも、本当は縛り)
恋は自由に見えて、実は“型”がある。その型が発動する瞬間を、この曲は「呪い」と呼ぶ。だから主人公は、魔法使いであると同時に、呪いにかけられてもいる。ここに甘さと危うさが同居します。
サビの「お願い、いますぐにここでキスして」—衝動を“命令形”に変える瞬間
この一言の強さは、ロマンチックというより、意思決定のスピードにあります。恋の決定打って、じつは論理じゃない。迷っている間に、“今”は過ぎてしまう。
だから主人公は、願いの形を取りつつ、ほぼ命令形で突っ込む。ここが「女の子は誰でも=誰でもそうなり得る」部分で、読者(聴き手)側の体験と接続されます。
キスは、行為そのもの以上に「関係を確定させる印」。曖昧さを終わらせるスイッチです。つまりサビは、「曖昧なままではいられない」という心の叫びとして読むと、一気に生々しくなります。
ラストの英語パートをどう読むか:paradise / love songs が示す“甘さ”と“危うさ”
英語が入ることで、視点がふっと引きになります。日本語のパートが“当事者の熱”だとしたら、英語は“少し外側からのナレーション”っぽい。
ここで示されるのは、恋が作り出す「楽園」感(paradise)と、その楽園がしばしば“歌になって消費される”感じ(love songs)。つまり、
- 恋をしている瞬間は、世界が都合よく輝く
- でもその輝きは、物語化されやすい(=冷めた後に歌として残る)
この二重性です。熱に溺れながら、どこかで「これもまた一つの型かもしれない」と気づいている。だから後味が甘いだけじゃなく、少しだけビターに残ります。
アレンジの鍵:服部隆之参加で生まれた“ショー”の質感と高揚
「女の子は誰でも」は、バンドとしては珍しく外部アレンジャーに服部隆之を迎えた楽曲だと公式で説明されています。
この事実は、歌詞解釈にも効いてきます。
というのも、服部アレンジは“場面転換”が上手い。ドラマが次々に切り替わることで、主人公の衝動が「気まぐれ」ではなく「運命みたいな勢い」に見えてくる。さらに公式コメントでは、伝統を踏まえつつ革新性のある音楽、録音が興奮した、という評価も出ています(亀田誠治の言葉)。
要するにこの曲は、歌詞だけで恋の魔法を語っているんじゃなく、アレンジそのものが“魔法がかかった感じ”を演出しているんです。
まとめ:「女の子は誰でも」が最終的に肯定しているもの(“誰でも=あなた”へ)
この曲がすごいのは、女の子を“理想化”して終わらないところです。
- 魔法みたいに世界が変わる瞬間は、確かにある
- でもそれは、呪い(型・刷り込み)とも隣り合わせ
- それでも人は、無防備になって一歩踏み出してしまう
この矛盾を、断罪せずに丸ごと肯定する。だから「誰でも」は綺麗事じゃなく、痛みも含めて普遍なんだと思います。

