2012年に、ロックバンドであるドレスコーズが結成されました。
このバンドは、志磨遼平を中心に活動しており、その中でも「ゴッホ」という楽曲は特に人気があります。
この曲の歌詞には、「交響楽的社会」というテーマが取り入れられています。
では、「交響楽的社会」は一体何を意味し、また歌詞の中でゴッホに対する嫌悪感がどのように表現されているのか、詳しく見ていきましょう。
まるで一つの映画を鑑賞しているかのよう
「ゴッホ」は2013年にリリースされたアルバム「バンド・デシネ」に収録された楽曲です。
「バンド・デシネ」(Bande Dessinée)はフランス語で「漫画」という意味で、これはフランスの漫画作品を指します。
この漫画スタイルは、スヌーピーやその仲間たちが登場する「ピーナッツ」のようなものと考えるとわかりやすいかもしれません。
一方、日本の漫画は「MANGA」として知られており、これは異なるスタイルや文化を持っています。
興味深いことに、志磨遼平は「バンド・デシネ」という言葉が日本語でも聞こえるようで、それを気に入って採用したようです。
この楽曲は、ラップ風の部分から始まります。
歌詞は時折恥ずかしいと感じさせることもありますが、これが志磨遼平の独自の魅力の一部と言えるでしょう。
このセクションでは、ラップとドラムだけが演奏され、ラップはむしろ語りに近いスタイルですが、これがドラムと見事に組み合わさっています。
この組み合わせが非常に心地よいのです。
そして、メロディに入るとテンポが安定し、ミドルテンポのサビへと進化します。
楽曲の構成は非常に変化に富んでおり、まるで一つの映画を鑑賞しているかのような感覚をもたらし、これがこの曲の魅力の一端です。
主人公は葛藤を続けている
アナーキー・イン・ザ・1K
ぼくのぼくによるぼくの国家は
ただ6畳一間の領土と
家賃差し引いて残した国家予算
最初の行は、伝説的なパンクバンドSex Pistolsの「Anarchy In the U.K.」に触発されたものと思われます。
「アナーキー」は「無政府」「無国家」「無秩序」といった意味を持つ言葉です。
しかし、次の行では「国家」という言葉が使われています。
主人公は、狭い部屋を自身の領土と称し、わずかな生活費を「国家予算」と呼んでいます。
彼はジョニー・ロットンに憧れてアナーキストになりたいと口にしますが、一方で彼は現実の世界で実際に生活しており、日本の国家システムの中で生きています。
彼は自分の夢と現実との間で葛藤しており、このフレーズからその様子がうかがえます。
地球の未来も気にせず
ぼくはここでひたすら考える
曰く、交響楽的社会
形而上学的道徳感
環境や世界のことについての時間を持つ余裕はなく、主人公は自身の問題に一杯一杯のようです。
主人公はひたすら考え続けますが、その結末はどこに向かうのでしょうか。
「交響楽」という言葉は通常、オーケストラの音楽を指します。
それは多くの人が集まり、それぞれが異なる役割を果たす社会の象徴でしょうか?
それとも、協力して生きているように見えて、実際には一人ひとりが孤独な存在である社会を表しているのでしょうか。
この問いについては、歌詞を読み進めるまで保留しましょう。
「形而上学」とは、目に見えない存在について考察する学問です。
心、精神、神などの実在性を探求し、証明しようとする学問です。
主人公はアナーキストのように振る舞っていますが、最終的には社会や一般的な道徳について考えを巡らせることになります。
ここでも主人公は葛藤を続けています。
表現しきれない感情
少年マンガ原理主義に則って
いざぼくらは進め
ド正義だ 邪魔するやつらは
いい日を選んで目ェ噛んじまえ
漫画における「原理」とは、何かを行動する際の根本的な理念や信念を指します。
主人公は葛藤を経て、自身が進むべき道を見つけ出す姿を示します。
これは、多くの少年漫画で見られる一般的な主人公像です。
「目を噛め」という表現は、関西方言で時折聞かれる表現で、相手に驚きや呆れを感じた際に使用されます。
主人公は自分が突き進もうとしても、結局は自虐的な言葉を口にすることから、その葛藤が表現されているのかもしれません。
だけど ぼくがいなくて困る人なんか
いない、とも毎朝思う
ぼくは ゴッホじゃやなんだ
やっぱりゴッホじゃやなんだ
フィンセント・ファン・ゴッホという名前は、ほとんどの人が聞いたことがあるでしょう。
彼の「ひまわり」や独特の自画像は非常に印象的です。
彼は生前に多くの優れた作品を生み出しましたが、その評価が広まったのは彼の死後でした。
主人公はまるで漫画のキャラクターのように進む決断を下しました。
しかし、朝起きてみると、自分はどれだけ置き換えられる存在であるかを考えてしまいます。
この歌詞には、「自分が多くの作品を残しても、それが誰かに認識されないことへの嫌悪感」や、「死後の評価には何の意味もないという感情」など、表現しきれない感情が込められているでしょう。
面倒な選択を受け入れる覚悟
だんだんだんだん増えず、減った選択肢
そのうちぼくらはひとつの未来へ進む
右か左か 選ぶ時がおとずれたら
めんどうになりそうな方に進め ベイビー
将来に対する展望がどれだけあっても、成長するにつれて人生の選択肢は制限されていくものです。
やりたいことや追求したいことが山ほどあっても、実際に実現することは限られてしまいます。
人生はいくつかの分岐点で道を選ぶことがあります。
夢を追求するか、安定した生活を選ぶか、それとも両方を両立させるか……。
通常、自分の夢を実現するためには、面倒な問題に立ち向かわなければなりません。
このため、自分の生き方を選ぶときには、面倒な選択を受け入れる覚悟が必要だと言っているのです。
新たな要素
ああ 時計はまわってごまかすんだよ
終わりなんてない顔をして
ねえ 死ぬとか今は信じられないけど
ずっと離さない なにが起きてもこの未来がいい たらればに手を振れ!
悲しい時代でもぼくらは踊ってすごしたよ
時計の針は絶えず回転し続けます。
電池の交換や故障がない限り、その動きは途切れません。
しかし、人生は限られています。
いつか私たちはこの世を去り、私たちの人生の時間も尽きます。
若い頃は、これらのことを考えることは難しいかもしれませんが、確実に時間は過ぎていきます。
私たちはその時間の中で選択を迫られます。
選んだ道を歩む中で、時折「あの時、こうしていれば」「あの瞬間、ああ言えば」と振り返ることがあるかもしれません。
しかし、「たられば」に時間を費やしてはいけません。
選択が思うようにいかなかった場合でも、その瞬間を最大限に生きることが大切です。
物語のこの段階から、誰か特定の相手に焦点が当てられます。
その相手は一体誰なのでしょうか?
また、「ぼくら」とは、主人公と誰のことを指しているのでしょうか?
ここからは、歌詞の雰囲気がわずかに変化し、新たな要素が加わります。
これまでの展開は何だったのか?
そんなぼくらの交響楽的社会
形而上学的道徳感
お金じゃないとか言うな、
お金って愛の数値化だ
C28のM73 Y18でKが14!
やっぱ子供とか作んなきゃだし
それとコンビニでケーキも買おうよ
最初は、一人きりで孤独に思索していた交響楽的な社会と形而上学的な道徳観が、この段階では「ぼくらの」という相手と共有されています。
つまり、ここでは誰か特定の対話相手が存在することが示唆されています。
交響楽的社会は、それぞれが協力し役割を果たす社会のように感じられます。
そして、お金について触れます。
「愛があればお金は不要」というのは誤りです。
お金は愛の一部であり、愛する人を支えるためにはお金が必要です。
これは決して愛が金銭で買えるものではないことを意味します。
次に、カラーパーセントという記号について触れます。
これは美術やプログラミングに携わる人にはおなじみの概念でしょう。
実際にこの色を生成してみましたが、紫と白を組み合わせたような色ができました。
ゴッホは一般的に黄色や青色で知られていますが、この色とは無関係のようです。
言い換えれば、ゴッホの治療に使用された「ジギタリス」という花の色とも異なります。
実際にはこの数値には特別な意味がなく、語呂が良いだけのようです。
そして、話は現実的な側面に向かいます。
子供を持つという重要な決断について言及し、最終的にはコンビニでケーキを買うという小さな幸せを求めることに焦点を当てます。
くだんない会話で笑おう
ちゃんと 死ぬときの話もしよう
もうやることなすこと写真撮って
老後にふたりでながめよう死ぬために生きてるんだとか
必ず終わりがくるだとか
なにがなんだってなんなのだ
ぜんぶ手に入れるだけだ!
とうとう物語は二人の老後にまで進展し、さらに死を考えながら生きることについて言及しています。
そして、主人公は最終的に控えめな生活を選びました…と思われた瞬間、突然「全部手に入れる!」と宣言します。
ここで、リスナーは少し驚き、「これまでの展開は何だったのか?」と疑問を抱くことになります。
何かを変えるべきだ
朝 目が覚めてここがたとえ火の海でも
気付かないくらい 幸せな夢を見るわ
ぼくらがなにかを変えるため生まれたなら
こんな音楽も本当はいらないだろう
この部分の歌詞はかなり難解です。
逆に言えば、何かを変えるために生まれてきたと確信していない人々にとって、この音楽が必要であることを示唆しているのかもしれません。
もし人生の目的が何かを変えることに関連しているのであれば、音楽に対する深い感銘は必要ないかもしれません。
しかし、そうでない場合、この歌は特に重要です。
つまり、この歌には「何かを変えるべきだ」というメッセージが込められている可能性があります。
主人公は最初、ささやかで平凡な人生を歩んでいるように見えましたが、実際には違う何かが彼に託されているようです。
子供らしい楽しみと冒険
ああ 男の子 ちゃんと傷つけ 今は
偉大なあやまちの真っ最中
ああ 女の子 ぼくらホントにばかだけど
なんでもするよ 泣かないでああ 時計はまわってごまかすんだよ
ねえ 死ぬとか今は信じられないけど
子供についての歌詞が登場したことから、歌の対象年齢が急に若い子供たちに向けられています。
男の子たちに対しては多くの失敗を経験することを奨励し、女の子たちにはその失敗を謝るよう促しています。
また、「何でもするから泣かないで」という言葉は、子供向けの言葉に変化しています。
つまり、この部分は大人から子供たちへのメッセージを伝えているようです。
大人になると、通常、専念すべき一つの道を選ぶ必要がありますが、この歌は子供たちに、多くのことに挑戦し、失敗を経験することの重要性を伝えています。
そして、再びサビで同じフレーズが繰り返されます。
先ほどは死に向き合う視点を示唆していましたが、ここでは再びそれを避けるような表現が用いられています。
おそらく主人公は、子供たちに対しては、そのような深いテーマを避け、子供らしい楽しみと冒険を楽しむことを望んでいるのでしょう。
志磨自身の心の叫び
ぼくがいなくて困る人なんか
いない、とも毎朝思う
ぼくは ゴッホじゃやなんだ
やっぱりゴッホじゃやなんだ
最終的に物語は最初の六畳間に戻ります。
おそらく主人公は、その部屋から出ずに、様々な幸せな冒険や想像を楽しんだのかもしれません。
しかし、主人公は結局、「何もかも手に入れたい!」という欲望を捨て切れませんでした。
ゴッホのように全てを捧げて芸術に生きるか、大切な人とささやかな幸せを手に入れるか、そのどちらかを選ぶことを拒否し、全てを求め続ける主人公。
この物語は、志磨自身の心の叫びでもあるかもしれません。
「音楽の全てを味わい尽くしたい」という強い願望が主人公にとって中心的な要素でしょう。
これから主人公はどのような道を歩むのでしょうか。
それは物語の魅力的な謎と言えるでしょう。