【Boy/踊ってばかりの国】歌詞に意味はある?楽曲全体の批評と考察。

新世代の浮遊感

「浮遊感」という言葉は音楽を語る時によく使われる表現である。

日本のポップミュージックで言えば思いついたアーティストで言うと、井上陽水がそれまでのポップミュージックには存在しなかった空気感と浮遊感、陶酔感に満ちた楽曲の元祖の一つではないかと思う。
氷の世界、勝者としてのペガサス、リバーサイドホテルといった楽曲は特に陶酔感や浮遊感を強く表現しているのではないかと感じる。

(真偽のほどは定かではないが、「夢の中へ」で歌われている「捜し物はなんですか」という歌詞はガサ入れで違法薬物を探し回る警察を揶揄した歌詞、という説がある)

浮遊と陶酔はとても相性のいい表現方法で、その根底にはオーガニックなものも含む「ドラッグ」が影響しているのではないかと推察する。
日本におけるドラッグと音楽の関係はあまり語られることのない要素だが、海外ではチャーリー・パーカーやジョン・コルトレーン、チェット・ベイカーといったジャズの巨人がクスリ漬けになりつつも浮遊と陶酔に満ちたものすごい演奏を、文字通り命を削って作り上げていたのをはじめ、ジミ・ヘンドリックスのサイケデリックブルースやピンク・フロイドの長尺プログレッシヴ・ロック、ボブ・マーリィに代表されるジャマイカンレゲエ、ストーン・ローゼズやプライマル・スクリームが花開かせたセカンド・サマー・オブ・ラヴ、まさにドラッグの陶酔そのものといった「ボーン・スリッピー」を生み出したアンダーワールド等のテクノ勢など音楽とドラッグの関係は切っても切り離せない歴史がある。

日本でも井上陽水以降、ドラッグを思わせる陶酔感を持ったアーティストやバンドが多く生まれている。
日本におけるノイズミュージックのパイオニアであるメルツバウ、海外にも根強いファンが存在するアバンギャルドロックの伝説的存在・裸のラリーズ、独自のサイケデリックガレージロックを好き勝手に鳴らしたゆらゆら帝国やブレイクビーツとギターサウンドを融合させ、浮遊する夢幻の世界観を作り出したスーパーカーやコーネリアス、J-POPとダブの架け橋となったフィッシュマンズなど多くのアーティストが生まれ、確かな耳を持ったコアな音楽ファンを唸らせてきた。

今回取り上げる「踊ってばかりの国」もそういった「陶酔」を感じさせるアーティストの一つである。

2008年に結成され、現在では唯一のオリジナルメンバーとなったボーカル・下津光史の歌声はどことなく、唯一無二の声を持ち、33歳という若さでこの世を去ったフィッシュマンズのボーカル、佐藤伸治の声を思わせると思ったのは私だけだろうか。
そして、声だけでなく楽曲を彩るサウンドも奥行きのある空気感とヒリつくようなノイズを纏い、リスナーを浮遊と陶酔に導く中毒性を持ち合わせている。

今回は「踊ってばかりの国」の名を一躍世に知らしめた「Boy」を考察してみたい。

一聴しただけではわからない、音楽オタク達が奏でる無限の仕掛け

見たことない 聞いたことない Boy

君の事情 8の二乗 Boy

雨降り模様 テレビつけよう Boy

たまの日曜 お出かけしよう Boy

寝癖つき髪の毛 煙の中 掻き分け

衛星の電波から 走ってきたあのビートは

脱げたサンダルこの恋よ Forever

あのチャンネルには映らないようにね

雲を抜け 屋根を抜け 届くわ Oh Forever

パパとママにはずっと内緒だぜ

寂しくない 寂しくない

弱いおまじない

夏でもないし 冬でもない

そんなlonely night

寂しくない 寂しくない

弱いおまじない 弱いおまじない

夏でもないし 冬でもない

そんなlonely night

寝癖つき髪の毛 煙の中 掻き分け

衛星の電波から 走ってきたあのビートは

脱げたサンダルこの恋よ Forever

あのチャンネルには映らないようにね

雲を抜け 屋根を抜け 届くわ Oh Forever

パパとママにはずっと内緒だぜ

脱げたサンダルこの恋よ Forever

あのチャンネルには映らないようにね

雲を抜け 屋根を抜け 届くわ Oh Forever

パパとママにはずっと内緒だぜ

ボーカル・下津光史の歌声はフィッシュマンズの佐藤伸治を思わせると先程書いたが、踊ってばかりの国のサウンドはフィッシュマンズほどダブに染まらず、しかし様々な要素を持ち合わせている。
初期Strokesのようなコード感のあるガレージサウンドがあり、フィッシュマンズ直系のダブもあるかと思えばカナダのポストロックバンド、Broken Social Sceneのような繊細で奥行きのある空間があり、轟音と静謐が同居するギターサウンドはシューゲイザーの雄、My Bloody Valentineを思わせる。
歌詞は抽象的に紡がれているものの、下津のイノセントな歌声によってロマンチックかつ青さを感じさせ、どことなく悲しみを纏った物語に仕上がっている。
「Boy」は長尺とも言える8分弱の長さを持つが、インストゥルメンタルのアウトロが全体の半分近くを占めており、このあたりはやはりフィッシュマンズを思わせる。
フィッシュマンズがどちらかというとループを主体とした展開によって陶酔を演出していたのに対し、踊ってばかりの国の楽曲は目まぐるしい展開を見せる。
静と動、轟音と静寂が三人のギタリスト、ギターボーカルの下津と丸山康太、大久保仁によって奏でられる。
丸山と大久保、この二人のギタリストが踊ってばかりの国の静と動を司る役目を担っているのだと思う。
Strokesのニック・ヴァレンシとアルバート・ハモンドJrやSmashing Pumpkinsのビリー・コーガンとジェームズ・イハなど並び立つ個性が特徴的なツインギターバンドは多くあるが、私が踊ってばかりの国の楽曲を聞いて思い浮かんだのはLUNA SEAのSUGIZOとINORANのコンビである。
INORANの静とSUGIZOの動が絡み合うサウンドは一聴して「どっちがどれを弾いているのかわかる」ものだが、丸山と大久保のギターサウンドもそれに共通する個性を感じる。
不意に飛び込んでくる不協和音などはよく聴いていないと気づかないほど自然に差し込まれており、幅広いバックボーンを持つ二人のギタリストの奥深さを感じさせる。
どちらがリードで、どちらがリズムなのかは時によって変わる。
右(大久保)が変な音を鳴らしているな、と思うと左(丸山)が全く違った変な音を鳴らす。
この「Boy」も左右のギターサウンドに集中して聴くと何度聴いても新しい発見があり、聴くたびに新しい物語を想起することが出来る。

ベースの谷山竜志、ドラムの坂本タイキがしっかりとボトムを支え、二人のギタリストが彩るサウンドをしっかりと繋ぎ止めているのが下津のボーカルである。
低音から高音まで自在に操り、コロコロと色を変えるその声は楽曲によってガラリと印象が変わる。
「Boy」は踊ってばかりの国の楽曲の中ではかなりポップに振れている楽曲で、下津の歌声も代名詞的な高音をメインに歌われているが、別の楽曲「サイクリングロード」では別人が歌っているのかと思わせるほど色の違うボーカルを使い分けている。
まるでBlurの「Tender」でデーモン・アルバーンがバリトンとアルトを使い分けたのと同様、下津も楽曲内で様々な声色を使い分けることが出来るようだ。

歌詞は一見して支離滅裂にも取れるが、「このメロディにはこの響きの言葉」という絶妙なマッチングがなされている。
音楽の楽しみ方に正解などないが、私は踊ってばかりの国の楽曲を「部分部分で聴き取れる断片的な歌詞を元に、サウンドで展開を、メロディと声色で感情を付与して作り上げる物語」として楽しむのが心地よいのではないかと思う。
踊ってばかりの国に限った話ではないが、あらゆる音楽、あらゆる映画、あらゆる芸術作品の解釈は最終的に自分の中で作り上げるものである。

踊ってばかりの国を未体験の方は是非この「Boy」を聴き、楽曲が放つメッセージを元にあなただけの物語を作り上げてみてはいかがだろうか。

この楽曲にはあなたの自由な解釈を許すだけの余白が充分に用意されているはずである。