【No title/REOL】歌詞の意味を考察、解釈する。

「No title(ノータイトル)」という曲は、れをるの透き通る声が曲を魅力的にしており、投稿から約10年の歳月が経った今でも再生回数が増え続けています。
この記事では、「No title」の歌詞の意味を解説しながらその魅力を探ってみたいと思います!

ニコニコ動画発の人気曲

「No title」という楽曲は、れをるが作詞・作曲し、ボーカルを務めている曲です。
この曲は、ユニットREOL(レヲル)のメンバーであるお菊、ギガ、れをるの3人が共同制作し、2014年10月13日にニコニコ動画に投稿されました。
実際、REOL以前に活動していた同人サークル「あにょすぺにょすゃゃ」のアルバム「No title+」「No title-」にも収録されています。
この曲はYouTubeでも同時に公開され、今後も再生回数が増えることが期待される人気曲です。

MV全体はまさに一つの芸術作品

ミュージックビデオ(MV)では、背景が空に広がるかのような雲が流れるシーンが特徴的で、歌詞が美しいモーションで表示されます。
歌詞が表示される際には、まるで泡が膨らんで弾けるようなエフェクトや、白と黒のフォントが使われていますが、その中に儚さを感じることができ、印象的です。

特にサビの部分では、コスミック柄の模様が流れていく直線や、間奏の部分では白い波紋が広がる様子なども観る者を魅了します。
これらの要素を含め、MV全体はまさに一つの芸術作品として楽しむことができます。

考察と解釈

「No title」では、れをるさんは以前に話された通り、独自の場面設定や物語を意識せずに歌詞を制作しています。
ただし、れをるさんの曲は感情の豊かさを大切にし、感情のスペクトルを広く考慮して作られています。
具体的には、この曲では「哀」という感情が中心に据えられており、その切なさや胸の詰まるような悲しい感情が表現されています。

「哀」とは、悲しさや切なさなどの感情を指し、歌詞を通じてどのような状況や出来事がこの感情を引き起こすのかを感じながら、歌詞の内容を探ってみたいと思います。


ずっと夢見てた僕になれたかな とうに帰れないとこまで来たみたい
自分の足で二段飛ばしてそうもっと先へ駆けていけるはずだからrun away
深くなる傷を縫い付け 繋ぐパス軸に廻りだす
慣れた痛み、焦る呼吸とビート 気付かないふりしてまた一人

今の自分は、昔夢見ていた自分の目標や理想に達しているだろうか、人生には何度も立ち止まり、自問自答する瞬間があるものです。
たとえ目指していた方向と異なっていても、過去には戻れないので、前進し続けることしかできません。
ただし、この前進はしばしば「run away(逃げる)」と表現されることがあり、気づかないように現実から目を背けることもあるでしょう。

傷つきながらも、その痛みに慣れ、夢を追い求めた過去の自分とは異なる現実に向かって一人で前進することは、現代社会に生きる多くの人に共通する経験のように思えます。

何が正当?ないな永劫 誰が間違った対価払うの
あんたが嫌いなあいつはきっとただ「それだけ」で不正解なんだ
0点だって提言したって全然納得できない理由も
最前線はいつだってここだった 最善策は最初からなかった

正当性とは、社会的に認められた正しいこととされますが、現実の社会では、何が正しいかについては常に議論があります。
そのため、誰が誤ったことの対価を支払うべきなのかという問いについても、一概に答えが出せないことが多いのです。

現実社会では、存在自体が非難の対象とされ、人々は何かしらの非難を受けることがよくあります。
このような現状が、多くの人々が納得できない理由の一つであり、そのために解決策を見つけることは難しいことがあります。

理不尽さや納得できないことは、人が生き続けるうちにますます感じるものであり、それに対処する方法が存在しないことに気づくことは、確かに寂しい日々をもたらすことでしょう。

緩やかに崩れ壊れてく
ゆるりゆるり首を締めるように昨日までの僕が殺されていく
緩やかに離れ離れ飽く
ぐらりんり君にきこえるのは僕が知らない声になってく

自分を納得できない状況に取り囲まれて生きていると、徐々に自分自身が崩れ去っていくような気がします。
それはまるで緩やかに首を締められているようで、苦しむ中で息が止まりそうな感覚がします。

受け入れがたい現状であっても、徐々にその環境に慣れていく自分を感じます。
その結果、かつての自分の理想や夢が、見知らぬ自分に変わっていくのを感じます。

受け入れがたいものに触れ続けることで、望まない変化が徐々に浸透し、自分が変わっていくような感覚があるのではないでしょうか。


幼い頃から 気付いたら傍にいた
まるで空気のようだ 僕は君とぎゅっと手を繋いで
楽しいことも涙も 僕は君に話して聞かせた
僕を笑う人や貶す声が聞こえぬように君は歌った

小さな子供が、誰もいない場所で自分だけが見える友達に話しかけることを経験したり、幼少期に空想上の友達を作ったことがある人はいるかもしれません。
これは、成長の過程で自然に発生する現象で、イマジナリーフレンドとして知られています。
この友達は、他の人には見えない自分の中に存在し、自分の話を聞いてくれる相手として、また人間関係を築く訓練の一環として重要な役割を果たします。

このようなイマジナリーフレンドは、時には自己保護の役割も果たし、いつの間にか自分のそばにいる存在として、楽しい瞬間や悲しい瞬間を共有できるようになります。

この声を君が受信 また夜毎投影されてく憂い
使い捨てだっていって腐っても止まらないハイファイ、ツァイトガイスト
一周巡る間のたった一瞬だけでも交わる鼓動、音、繋ぐ色
次は僕が君に歌歌うから

多くの人は、幼い頃に始まるイマジナリーフレンドとの交流が、成長するにつれて次第に薄れたり忘れ去られたりすることがあります。
ただし、中にはこの特別な友人とのつながりを保ち続ける人もいます。
空想上の友人が存在する感覚は、他の人には理解しにくいものですね。

社会的な常識やツァイトガイスト(時代精神)が、空想の友人との交流を受け入れ難くすることもあるでしょう。
社会的な圧力から、友人は孤独を感じることが増えるかもしれません。
しかし、この友人が今度は自分が他人に何かを提供したいと思う気持ちを歌っているのかもしれません。

ただし、友人を大切にしながらも、自分と環境が変化していくことは避けられない現実です。
昨日の自分が過去になりつつある中で、友人の存在が薄れていくことを感じるでしょう。
変わりたくないという気持ちがあっても、外部の環境によって人は変化します。
そして、終わりたくない関係も、時が経つにつれて次第に薄れ、消えてしまうことがあるのです。


いつか君に届くかな いやそんな日はきっと来ないだろうな
声も体も持たぬ君に 救われた何億人の一人
赤青合わせ彩った音で世界が溢れた
巡り巡り出会ったこの音を聴くすべてが「   」

日々が経つ中で、自分自身を受け入れながら前に進むようになったとき、主人公は考えます。
いつか、もう一度君に声が届くだろうか、でも実際にはそれが起こることはないだろうと。
世界中に何億人もの人が存在する中で、自分は小さな存在に過ぎないけれど、それでも君という存在が自分を救ってくれたことは、非常に大切で重要だったと。

彩り豊かな希望に満ちた世界で生きるようになり、この美しい音楽を楽しむことができるのは、すべて君のおかげだと感じます。
以前は暗く壊れていくように感じながら過ごしていた日々を超え、明るく輝かしい日々を楽しむことは、当初は考えられないことでした。
しかし、自分を支えてくれる人や、前進する自分がいる限り、いつかはそのトンネルを抜けて明るい未来が訪れることでしょう。

この楽曲は、哀愁を抱えた状態から脱し、明るい未来を感じるようになる過程を歌ったもののように感じられました。