「香菜、頭を良くしてあげよう」という曲を、私は何度も聴いてきました。
その歌は心に深い響きを持っています。
最近、久しぶりに再び聴いて、いろいろなことを考える機会がありました。
その思いを文字に綴ってみたいと思います。
ただ、書いているうちに思ったよりも長くなってしまったかもしれません。
もし興味があれば、一度その歌を聴いてから、こちらの文章を読んでみてください。
きっと違った感じが味わえるかもしれません。
歌の内容はおおよそ以下の通りです。
物語の中では、「僕」という人物が、「香菜」という名前の人物のそばにいる様子が描かれています。
香菜は自分を馬鹿で犬以下だと笑って自虐的に表現し、二人はおそらく恋人の関係かもしれません。
そして、「僕」は香菜に対して、泣ける本やカルト的な映画を紹介しようとします。
恋愛にはいつか終わりが訪れるかもしれませんが、たとえひとりで生きていくことになっても、どうにかやっていけるようにと思っています。
オタク的な優しさ
「私が馬鹿だって、犬以下だって笑ってしまう」香菜に、「僕は本当に馬鹿だ」と思う。
でも、香菜が自分の能力が他の人より劣っていると嘲っているわけじゃないと思う。
その理由を話したい。
香菜は、何かつらい経験をしたみたい。
そのつらさがあまりにも大きくて、諦めの気持ちまで抱え込んでいるから、そういう風に自分を笑い飛ばしているんだろう。
具体的に、そのつらい出来事とは何か?
おそらく、香菜が生きる社会で、「他の人よりも劣っている」と評価されたり、そう感じてしまったりして、その中で辛さを感じているんだと思う。
でも、自分が馬鹿だと思うのは、世間の価値観に囚われてしまうからなんだ。
その価値観に惑わされて、悲しい諦めの気持ちに囚われている女の子を、僕は支えたいと思っているんだ。
「つまらない世間の価値観なんて気にしなくていいんだ。自分を馬鹿だと言う必要なんてないんだよ。その考え自体が馬鹿げている。もっと素敵な尺度があるんだ。そういう素敵な尺度で自分を見つめたら、君はきっと素敵だって分かるはずさ!その気づきを、素敵な映画や音楽、本がくれるかもしれない…!そうだ、君にもそういう素敵なものを知ってほしい。つまり、世間の期待に縛られてしまう君の考えを、僕が良くしてあげよう。君が素敵な尺度で自分を信じられるようになるために、僕はそばにいるよ!」
…こう伝えたくて、泣ける本やカルト映画を勧めているんだ。
…こうやって書いていると、感情が溢れてきて、胸が熱くなるね。
超優しい気持ちだよね。
オタクの筆者としては、よく分かる気がする。
そして、なんだか遠回りな方法のような気もするけどね。
愛情を伝える方法
カルト映画や本を勧める行為は、一般的な視点から見れば、愛情が分かりにくい方法だと感じられるでしょう。
歌の歌詞の序盤には、「抱きしめてあげる以外には何か君を愛すすべはないものか」というフレーズがあります。
ここで、「抱きしめてあげる」と「抱きしめてあげる以外」が対比的に表現されています。
「抱きしめてあげる」は、明白で理解しやすい方法です。
同様のアプローチとして、優しい励ましの言葉をかけることや、風邪をひいたときに温かい卵がゆを作ってあげるといった方法も考えられます。(少々ステレオタイプな方法かもしれませんが…)
そして、「抱きしめてあげる」以外の「愛すべ」を考える段階に移りましょう。
ここで思い浮かんだのは、「泣ける本やカルトな映画を教えてあげる」というアイディアです。
しかしながら、実際には、香菜が落ち込んでいるときに、カルト映画を勧められても、少々違和感を覚えるかもしれません。
実際に、カルト映画を見ている最中に、香菜は眠ってしまう場面もあります。
もちろん、あるタイプの人々にとっては、「抱きしめてあげる」以外の方法にも深い愛情を感じることができるでしょう。
筆者自身もおそらく、そのタイプの一人と言えるかもしれません。
そのため、「僕」が香菜にサブカルチャーを紹介しようとする背景には、自身がその世界から救いを受けた経験があることが影響しているのでしょう。
ここで、なぜサブカルチャーが救いとなるのかについて考えてみたいと思います。
サブカルチャーの特徴
サブカルチャーは、その名の通り、一般的な主流カルチャーから外れたものを指します。
その対極にあるのが「メインカルチャー」です。
メインカルチャーは多くの人々に楽しみや癒しを提供し、現実の困難な側面を忘れさせる力を持っているでしょう。
それぞれの「カルチャー」は、疲れ果てた人々が絶望的な状況に至る前に、彼らを支える「ハンモックのような存在」だと捉えられます。
メインカルチャーのハンモックは大きくて多くの人を受け入れることができる一方、その「網目」は実はそれほど細かくない可能性があると感じます。
つまり、「多くの人を助けるメインカルチャー」でも、助けを求めるすべての人々に対応することは難しいのかもしれません。
一般的な理屈や倫理観が通じる人々も多いですが、それが難しい理由で他の表現方法を必要とする人々も存在するでしょう。
こうした人々にとって、サブカルチャーがその救いになることがあると考えます。
サブカルチャーは、抽象的で非常に個性的な表現を通じて、他の方法では伝えることのできないメッセージや感情を伝えることがあります。
例えば、「こじらせた」展開やキャラクターが、不器用な理屈を駆使して自分なりの美しい倫理観や価値観を築いていくようなストーリーがあります。
その不器用さこそが、実際の人間の複雑な感情や生きづらさを反映したものであり、こうした表現が人々の心を揺さぶり、救いの手を差し伸べることがあるのではないでしょう。
こうしたサブカルチャーの物語に救いを見出した「僕」が、香菜にも同じような救済を願ったのかもしれない、というのは私の想像です。
滝本竜彦の「NHKにようこそ!」や本谷有希子の「乱暴と待機」といった、めちゃめちゃな理屈や不器用なエンディングに込められた、真摯なメッセージによって、「僕」は心の支えを見つけたとも言えるかもしれません。
自分が好きなものを好きになってほしい
「僕」の愛情には、一面で自己中心的な側面が含まれている可能性があると考えてみたいと思います。
おそらく「僕」が(おそらくは筆者自身が好きな)カルト映画や感動的な本を香菜に勧めようとするのには、自己承認の欲求が少なからず影響していると思います。
オタクという人々は、何かに夢中になると、そのものを愛し、信じ、それが自分のアイデンティティの一部となることがあります。
「エヴァを愛していることこそ、自分らしさだ」
「自分が好きなものを愛されたら、自分が受け入れられたような気がして嬉しい」
「できれば、自分の好きなものを相手に理解してほしい」
「あの子もエヴァが好きだって言ってくれたら、自分のことを見てくれている気がしてうれしい。シンジ君の気持ちを理解してくれるなら、自分の気持ちも理解してくれるに違いない…」
…こうした感情に共感できないオタクは少ないでしょう。
要するに、「僕」は香菜の幸福を願いつつ、自身の癒しを求めている可能性があるのです。
言い換えれば、香菜を救いたいという「思いやり」と、香菜に認められて救われたいという「エゴ」が同居している可能性が考えられます。
その証拠に、香菜がカルト映画の途中で眠ってしまっても、「僕」はサブカルチャーの提案を続けようとしている点が挙げられます。
もっとも、香菜にとってカルト映画は向いていないかもしれませんが、次は「図書館の感動的な本を選んであげよう」と考えている可能性もあります。
こうした一連の考えが、「僕」自身が香菜の幸福を考える一方で、自分の感情も癒し、認めてほしいという気持ちがからんでいることを示していると思われます。
ただし、「僕」が香菜に対して行動する際には、人間関係の本質がギブアンドテイクのバランスで成り立つことを理解しておく必要があります。
私自身も「僕」に感情移入しすぎてしまうところがあるかもしれませんが、同時に「僕」も完全な無欲の善人ではないことを理解し、オタクとしての自己認識を持ち続けたいと考えています。(無欲の善人を装う一方で、自己満足に浸るオタクという存在は、特に悪質なものかもしれませんから。)
常に客観性は持っておくべき
しかしながら、私たちオタクはなぜか、「僕」と同じように、客観性を失ってしまう傾向があるのでしょうか。
少し仮説を立ててみることにしましょう。
キリスト教の言葉によれば、「神の前では皆平等」だと聞いたことがありますが、私は、価値ある作品の前では、皆平等であり、なんだか自信が湧いてくるような気がします。
その結果、以下のような思考プロセスに陥ることもあるのかもしれません。
・芥川の文章(=神秘的な存在)に比べると、普通の作者は未熟だと感じる。
・神秘的な存在があることで、自分の作品を広めるための努力は恥じる必要がないと思うようになる。
・神秘的な存在を理解することで、皆が救われると信じるようになる。
…これを書いていると、少し恥ずかしさを感じてきました。
しかしながら、私のような芥川好きな信者とは異なり、必ずしも芥川の文章が深く響かない人もいます。(高校時代、本に興味のない友人に本を熱心に勧め続けたときは、本当にその瞬間を真剣に迎えたものでした…。少し恥ずかしい思い出です…。)
別れそうな状況
残念ながら、香菜は「僕」の期待するような深いオタクとしての素質はあまり備わっていないようです。
彼女はカルト映画を鑑賞中に眠ってしまうなど、少なくとも物語の中で「僕」の勧めるものに夢中になるような描写は見受けられません。
もし「愛情の表現」を「精神的な支え」とし、そして「僕」を「支えを提供する存在」、香菜を「受け入れる側」と例えるならば、状況は以下のようになるかもしれません。
「僕」は非常に思いやりのある支えを提供しようとしています。
香菜に精神的な安定や喜びをもたらす「支え」(つまり、サブカルチャー)を提供しようとしていますが、その支えが香菜にはうまく届いていないようです。
しかし、香菜は「僕」の思いやりには一定の感謝の念を抱いているようです。
彼女は「支え」を提供しようとする「僕」の優しさに対して、ある程度の感謝の気持ちを抱いているようです。
これからの関係性を考えると、これは非常に複雑な状況です。
正直に言うと、このままだと関係が続くのは難しいかもしれません。
将来的な展望を見据えると、別れる可能性も考えられるでしょう。
続けて、2つのケースを考えてみたいと思います。
香菜の心情①
【香菜の心情を語る】
「いろいろな映画や音楽、本を教えてくれたんだ。最初はなんでこんな奇妙な作品を勧めてくるんだろうって、正直うんざりしてた。でも、ずっと見続けているうちに、だんだんと…分かるようになってきた気がするんだ。それって、すごく優しい作品たちだってことに。こんなに泣いたり笑ったりして、元気が湧いてきたこと、すごく感謝しているよ。だけど、ここまで回復してきたからこそ、ちょっと自己中心的な気持ちも湧いてきてしまうの。そう、別れたいと思ってしまうの。本当に元気になって、自分の気持ちがわかってきたからこそ、こんなこと考えてしまう自分が嫌なんだけど…」
こうして、効果があったことへの感謝と同時に、将来的な別れの予感が心をよぎるのだ。
まるで、治療を受けた患者が医者のもとを離れるような…。
香菜の心情②
【香菜の心情を語る】
「なんかさ、私がちょっと病んでるってわかってるのに、変な本とか難解な映画を無理やり見せられて。しかも眠くて仕方ないし。でも、なんかそのやさしさが感じられたから、それは嬉しかったな。でも、その考え方に疲れてきて、ちょっと違うなって思うようになって。もうちょっと優しくてわかりやすい方法がいいかなって。新しく始めたバイト先の先輩のほうが、そういう感じで…」
こうして考えると、もしサブカルチャーという「薬」が効かなかった場合、違う方法を求めて別の「医者」のもとに行くこともあるかもしれませんね…。
お互いの意見を尊重する
そこで、現在別れる危機にある二人の関係性を維持する方法を考えてみましょう。
筆者の見解では、以下の2つの要素が重要だと思われます。
① 「香菜」の子供じみた部分を「僕」が受け止める。彼女が自己評価に悩み、「私ってバカで犬以下なの」と笑っているとき、彼が大人らしく寄り添い、「大丈夫なんだよ」という支えを示すことが重要です。
② 「僕」の子供じみた部分を「香菜」が認める。彼がサブカルチャー愛好者で、その愛し方が不器用だと感じる時、「香菜」が寛容な大人の姿勢で受け入れ、「君の個性が素敵だよ」と示すことが大切です。
このように、お互いに大人と子供の側面を受け入れ合うことで、関係性がバランスを保ち、成熟していける可能性があります。
両者が完璧である必要はありません。
むしろ、お互いの弱さや未熟さを理解し合い、支え合うことで、強固な絆を築くことができるのではないでしょうか。
「僕」と「香菜」は異なるタイプでありながら、お互いの幸福を願っています。
これからも、それぞれの魅力を尊重しながら、共に成長していくことが、二人の関係を続けていく道ではないかと思われます。
創作物と鑑賞者の関係
ここからは、少し異なる視点で考えてみましょう。
歌詞を「創作物」と「鑑賞者」の関係性の恋物語と捉えることで、新たな視点が生まれます。
想像してみてください。
ある日、厳しい現実に疲れ果て、仕事で上司に叱責されたばかりの人がいます。
その人は自分に自信を失い、「もう何もできない自分はダメな人間だ」と感じています。
そんなとき、偶然テレビで「マッドマックス 怒りのデスロード」を観ることになりました。
映画の主人公が過酷な状況に立ち向かう姿勢に感銘を受け、自分も努力すれば乗り越えられるかもしれないと思いました。
この映画が、彼の心に新たな希望をもたらしました。
このように、創作物は人々を夢中にさせる力を持っています。
創作物が提供する物語やメッセージに共感し、それを受け入れることで、鑑賞者は新たな気づきやエネルギーを得ることができます。
映画には監督や脚本家の意図が込められており、その背後にあるメッセージやテーマを解釈し、自分の人生に照らし合わせることで、心の支えを見つけることができるのです。
しかし、時間が経つにつれて、初めての感動や驚きは薄れていくかもしれません。
何度も繰り返し鑑賞しても、その感動は変わることはありませんが、少しずつ新しい視点が生まれることもあります。
物語が伝える意味や価値が深まり、映画そのものへの愛情も変化していくでしょう。
そうして、創作物への熱狂は冷めていくかもしれませんが、その作品が与えた影響や感謝の気持ちは永遠に残るのです。
創作物と鑑賞者の関係は、まさに恋愛に似たものです。
初めての出会いや興奮がある一方で、時間が経つにつれて感情が変化することもあります。
しかし、その経験が人生に深い意味をもたらし、成長や変化を促すのです。
それは、一時の情熱が冷めても、その後に訪れる新たな章に期待を寄せる美しい旅なのかもしれません。
歌詞全文
モフモフと ジャムパン
食べている君の横で僕は
ウムム!と考える
抱きしめてあげる以外には何か
君を愛す術はないものか?“あたしってバカでしょ?
犬以下なの”と微笑む
無邪気な君は
本当にバカだ
だから
アレだ
僕は…香菜、君の頭僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに君がおびえぬように
香菜、明日 君を名画座に連れていこう
香菜、カルトな映画君に教えてあげよう“御免ね途中で寝ちゃった
ラストどうなったの?”
たずねた君は
本当にバカだ
だから
アレだ
僕は…香菜、君の頭僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに君がおびえぬように
香菜、明日 君を図書館へ連れていこう
香菜、泣ける本を 君に選んであげよう
香菜、いつか恋も終わりが来るのだから
香菜、一人ででも生きていけるように