【ラスカ/ゲスの極み乙女。】歌詞の意味を考察、解釈する。

ポップでロックなメロディに軽快な歌詞が融合する曲かと思われがちですが、歌詞をじっくりと読み解くと、思わぬほど深遠な哲学的要素が込められているという意外性が『ゲスの極み乙女。』の魅力です。
同様に、今回紹介するラスカもそのような洞察に満ちています。
川谷絵音が手掛ける作詞作曲の中には、驚くべき言葉の遊びが見受けられることでしょう。

何事に対しても適当に称賛するメディアに対する皮肉

一体どうして何も考えず
あれに同意したりしてるの?
散々嫌になったろ?
そう思ってるのは僕だけ?
「魅力がすごいよ」垂れ流しのメディアの声
うまくは笑えないような週末

メロディが始まると、さまざまな疑問の声が次々と湧き上がります。
これらの疑問の源泉は、この曲の主人公である「僕」の思考です。
彼は誰かに対して、あるいは何かに対して納得できない点が多く存在しているようです。

歌詞のこの部分では、3つの疑問が提起されます。
最初の疑問は、「どうして何も考えずに『あれ』に同意しているのか」というものです。
しかしながら、肝心な部分が「あれ」という曖昧な表現で置き換えられているため、疑問は更に深まります。

2つ目の疑問は、「散々嫌になったはずではないか?」というものです。
3つ目の疑問は、「そう思っているのは僕だけなのか?」というものです。
これらの問いは、最初の疑問に関連しています。
何も考えずに「あれ」に同意するのはなぜなのか?
もう以前に嫌な思いをしたはずなのに、同じ轍を踏むのはなぜなのか?
それとも、この考えは「僕」だけのものなのか?

これらの問いの答えが実際に相手に伝わったのかは分かりません。
しかしながら、「僕」は納得できない疑問を内に秘めています。
ここで、「魅力がすごいよ」というフレーズが歌詞に登場します。
これは、何事に対しても適当に称賛するメディアに対する皮肉とも解釈できます。
週末になると、テレビなどのメディアから流れる中身のない称賛に、「僕」は上手く笑うことができません。


誰か楽しい話を聞かせて
それと真逆な短文はすぐに
指でなぞるだけでできるんだ

「僕」はメディアの内容では心の中の知的欲求が満たされません。
メディアではない誰かに向けて、より深い知的刺激を求めています。
彼は「楽しい話」を求めていますが、その「楽しい話」とは実際には逆の、興味深く考えさせられる話のことです。

この「それと真逆な短文」における「それ」は、「楽しい話」を指しています。
つまり、「楽しい話」とは対照的な、つまりは魅力的ではない話は容易に生み出せると主張しています。
また、「指でなぞるだけ」という部分の解釈は複数考えられますが、「短文」というキーワードが重要です。
その短文とは、内容の薄い、浅い言葉を指しています。
この部分は、事象を表面的にしか探求せずに、簡単に理解することができることを示唆していると解釈できます。

嫌なことが続く中で、「前向いて歌わないと」

今日もまた
嫌なことばっかり
泣いた振りで避けてばっかり
漕いだ舟もまた潜って
明日も綺麗ごとばっかり
前向いて歌わないと

曲の最初のサビでは、「今日もまた嫌なことばかり」という否定的な表現で歌が始まります。
この言葉から、過去の日々も同様に嫌な出来事が続いていた可能性が窺えます。
悲しい出来事は避けるために涙をこらえるふりをして、逃げ続けてきたかもしれません。
この否定的な感情は、実は自分自身に対するものかもしれません。

「漕いだ舟もまた潜って」というフレーズは、一生懸命漕いで前進しようとしても、結局は再び水の中に沈んでしまう様子を描写しています。
これは、努力が実を結ばない状況を比喩しているかもしれません。
昨日も今日も嫌なことが続く中で、「前向いて歌わないと」という思いが浮かび上がります。
達成されないことやつらい日々が続いても、それにくじけずに前に進むことを「僕」は強く意識しています。

大切な人が増えたことを素直に喜べない葛藤

言葉はポツリポツリ
暮らしてる間に落ちていくんだ
放物線を描いて舟が潜ったあとをついていく
拾い上げる前に
きっときっと
誰からも見られないまま

日々の暮らしの中で、拾いきれないまま地に落ちていく言葉たちが存在します。
こぼれた言葉は、水上を進む船の跡を追うように、ただ後を追いかけて沈んでいきます。
その様子は、ゆっくりとした放物線を描いて水底に消えていく言葉の姿です。
拾おうと努力しても、そのペースに追いつけず、ますます深い淵へと沈んでいってしまいます。
そうして消えていく言葉は、誰にも見られず、拾われず、視界から消え去ってしまいます。

報われない努力の結果、水面下に沈む船。
そして同じく誰からも見過ごされて水底へと消えていく言葉。
日常の中で大切なものを手に入れきれない不安感が、一つ一つの言葉を失う心情に繋がっているのかもしれません。
このような経験から、「僕」は日常生活に対して虚無感や空虚さを抱いているのかもしれません。


消えていくんだ
悪いな、また大切な人を増やしてしまった
ラブソングを歌って誤魔化してるんだ

大事なものや大切な言葉が手から離れていく様子。
それにもかかわらず、生きている過程で大切な人々が増えていくことに気づきます。
この増えていく大切な人々は喜ばしいことですが、同時に失うことの増加も意味します。
失うことに向き合うのが難しく、その現実を避けるために、ラブソングの中でそれをごまかしている側面があります。

「悪いな」「増やしてしまった」という言葉は、大切な人が増えたことを素直に喜べない葛藤を示しています。

「僕」はその思いを叫び声に託して歌う

それでも耐えられなかった思いを
書きなぐってしまったから
嘘になるわけない文字を歌う

初めてのサビと同じ歌詞の2度目のサビが終わった後、物語は進行します。
困難なことや偽りの美辞麗句に振り回されつつ、船は沈むし、手に入れきれない言葉を落としながら生活しています。
それでも、「我慢できなかった感情」は存在します。
涙をこらえて笑顔を作り、ラブソングで現実を飾り立てることもあるでしょう。
しかしそうしても、心には生まれる感情があります。

それらの感情を抱えているのが「僕」で、それを内に秘めきれず、その感情を書き記してしまいました。
その際に生まれた言葉には嘘がなく、本当の感情が込められています。
かつて「前向いて歌わないと」と自分に言い聞かせてきた「僕」。
そうした過去の姿勢と照らし合わせて、書きなぐった真実の文字を歌います。

「僕」が書き記したのは「文字」であり、それが自然と「言葉」に昇華されました。
自分の頭に浮かぶままに文字を綴ったことで、本心が言葉として表現されました。
ここで産まれた文字は、「僕」の真実の感情を偽りなく伝えています。


やっぱまだ僕は歌うから
泣いたふりしないで聴いてよ
漕いでた舟を飛び出して
ラスカ、君はもういないけど
僕は叫ぶよ

努力が実を結ばず、大事なものを次々に失っていく日々に嫌気がさしていた「僕」。

しかし、「やっぱりまだ」歌うことを決意しました。
「僕」にとって歌うことは、抑えることのできない感情を文字にするような本能的な行為です。
誤魔化しや表面的な美辞麗句とは一線を画する、真摯な表現と言えるでしょう。
そのため、聴いてくれる人に対しても、泣いたふりをすることなく、また現実をごまかすことなく、真実の感情を伝えたいという「僕」の願いが込められています。

水上を漕いでもすぐに潜る船は、真実を受け入れることを嫌がり、耳や目を閉ざすことを象徴しているのかもしれません。
しかしその船は、もはや過去のものであり、未来に向かって真実に向き合う決意を「僕」が固めました。
ここで登場する曲名「ラスカ」の意味は、歌詞だけでは完全には判断できませんが、「ラスカ、君はもういないけど」という一節がヒントを提供しています。
おそらく「ラスカ」は特別な人物で、「僕」にとって重要な存在であるが、もはやそこにはいないのかもしれません。
再び歌うことを選んだ「僕」が、「ラスカ」への思いを歌に託し、大切なものを気付き取り戻し、その想いを届けようとしている様子が描かれています。


言えない嘘は真実にして
届けメロディ
届けメロディ

曲の結末において、次の3行の歌詞が2回繰り返されます。

「言えない嘘」とは、そのままの意味で、自身の内にありながら他人に口にすることのできない嘘を指します。
このような嘘は、言葉として表現されず、ただ自分の内に存在するものです。
だからこそ、「真実」としてその嘘を歌に込めることを選びました。
このような状態から生まれたメロディは、嘘ではなく、真実を伝えるものであると確信しています。

「届けメロディ 届けメロディ」というフレーズが繰り返されます。
このメロディを届けたいというのは、「ラスカ」に対する想いが背後にあるかもしれません。
それとも、聴いてくれる未知の多くの人々へ向けたものかもしれません。
自身の本当の感情や声が誰かに届くように、「僕」はその思いを叫び声に託して歌います。

川谷絵音の特異な才能とセンス

「ラスカ」の歌詞には、表面的な美辞麗句や嘘に埋もれてしまうことから抜け出そうとする「僕」の決意が込められています。
その意味は、一度踏み出した真実の歌い始めを再び試みるという、奥深いものです。
アルバムのタイトルが風刺的なニュアンスを持って組み込まれている点は、川谷絵音の特異な才能とセンスを感じさせます。