こんにちは。
映画「何者」を視聴しました。
この映画に対する期待感は非常に高まっていました。
それは、「米津玄師と中田ヤスタカのコラボによる主題歌」と「朝井リョウの原作小説」という2つの要素からくるものでした。
以前、「君の名は。」を見た際には、単に「新海誠作品」という理由で大いに期待し、感動して帰宅しました。
そのため、「何者」に対しても同じような期待を抱いていました。
しかし、実際に映画を鑑賞した結果、率直な感想は「予想外の展開で、不快な気持ちになった」というものでした。※褒めています。
映画の一瞬先を読むことが難しく、その独自性に戸惑いました。
この映画は、私にとっては想像以上に奇妙で、視聴しなければよかったと感じました。※褒めています。
ただし、映画自体は素晴らしい作品であり、多くの人が感銘を受けることでしょう。
しかし、その独特のスタイルゆえに、再度鑑賞する気にはなれません。※褒めています。
これはあくまで個人的な意見です。
あと、ネタバレを含む内容となっていますので、ご注意ください。
もう観たくない※褒めています
この映画は、朝井リョウ氏の同名小説を基に制作された作品です。
朝井リョウ氏は、2009年に「桐島、部活やめるってよ」という作品で注目され、2012年に直木賞を受賞した、非常に才能ある新進作家です。
私は初めて朝井リョウ氏の作品に触れたのは、「桐島、部活やめるってよ」でした。
この小説は、登場人物の桐島自体が物語には登場しないにも関わらず、彼の行動から生まれる学園内の社会的階級の変化を描いた作品です。
私自身も高校生の頃、スクールカーストに翻弄された経験があり、「桐島」に共感しました。
この作品は、心に深い印象を残しました。
朝井リョウ氏が「何者」を執筆し、それが映画化されると聞いた時、期待が高まりました。
この新作もまた、リアルな「流れ」である就職活動をテーマにしており、私は再び彼の作品に期待を寄せました。
実際に映画を観賞した結果、期待以上の作品に出会いました。
しかし、その内容があまりにも衝撃的で、一度観たらもう観たくないと感じるほどでした。
それほどの印象を受けました。
ここからは、ネタバレを含むレビューとして、実際に感じたことを詳しく解説していきます。
厄介な共感ポイント
「何者」という映画は、就活にまつわる葛藤や思いを描いた作品です。
私がこの映画を観て、もう一度観たくないと感じた理由は、簡単に言えば「共感度が極端に高すぎる」からです。
一般的に、作品が人々に共感されると、感想やレビューで「ここが分かる!」「これが共感できるから好き!」といったコメントがよく見られます。
共感度が高い作品は、シェアされて広まり、トレンドを生むこともあります。
もちろん、「何者」もその例外ではないのですが、その共感は特殊なものです。
この映画は、共感度が非常に高いのですが、その共感がポジティブなものであれば問題ありません。
しかし、朝井リョウ氏の作品には、共感したくないような要素も含まれています。
主要登場人物たちが抱える暗黒面こそが、この作品の最大かつ最も厄介な共感ポイントです。
この映画を鑑賞することで、自分自身が抱える不快な側面に共感せざるを得なくなりました。
登場人物たちの試練に付き合うことが、自己探求の一環となり、何者に成長する一歩となるのでしょうか、それが疑問です。
人間の闇の本質を浮き彫りに
「何者」の特筆すべき点は、登場人物全員が異なる闇を抱えており、その闇が高い再現性を持って描かれていることです。
この映画を観ると、現実にも闇に囚われている人々がいることを感じずにはいられません。
そして、その中には自分自身が含まれている可能性もあるのです。
この作品は、非常に劇的な描写を通じて、人間の闇の本質を浮き彫りにしています。
心霊映画とは異なり、人間の内面に潜む闇がより恐ろしいものとして描かれています。
登場人物たちの闇には具体的な名前はありませんが、それぞれが異なる形で表現されており、明確に理解する必要があります。
この闇を明示的に認識することは、自己分析や就職活動の成功、そして人生の充実に欠かせない要素かもしれません。
サワ先輩
サワ先輩について、私が感じた最も印象的なのは、彼の内に闇が少ないということです。
彼のポジションは非常に特異で、知識の範囲が広くはないかもしれませんが、知っていることに対しては驚くべき洞察力があります。
他人に対して指摘やアドバイスをすることは、その背後にある理由を理解していなければ、軽々しく行うべきではない行為です。
同時に、自己満足感や達観視点を披露することになりかねない行動でもあります。
劇中でサワ先輩が主人公の拓人に対して行った二つの言動は興味深いものでした。
最初の「もっと想像力あるやつだと思っていたよ」という言葉は、逆に「お前の思考は完全に透明だ」とも受け取れます。
このような言動は、普段の生活でも見受けられることがあります。
自分が何かを理解しているという錯覚に陥り、「俺はわかっているぞ」という自己満足感に浸る瞬間です。
この瞬間には、他人を侵食するような全知の感覚が生まれ、非常に気持ち良く感じられることでしょう。
劇中ではサワ先輩の出番は少なかったですが、彼が舞台裏でにやりと笑いながら、ニヒルな視点で物事を見つめていることでしょう。
光太郎
光太郎は、明るくて純真なキャラクターです。
彼のような性格に憧れることがありますが、彼にも自身の闇が存在し、この映画ではそれを客観的に見ることができます。
明るくて社交的な性格を持つ光太郎にも、時折「無自覚」という悪しき側面が表れます。
これは、自覚症状がないままに周囲の人々を傷つける行動を取ってしまうことです。
彼はその行動の具現化のような存在であり、無自覚という特性は非常に強調されています。
この無自覚の闇は、実際に多くの人に共通する可能性があるもので、思考停止や他人を理解しないまま判断することが、問題の根源であると言えるでしょう。
例えば、「なんで拓人が就活受からないのかわからねえんだ」という発言は、考えることを停止し、理解を拒絶していることを示唆しています。
瑞月
瑞月は穏やかで安定した考え方を持つキャラクターです。
彼女は見た目からは闇を抱えていないように思えますが、実は「この人、将来的には何かを抱えそうだな」という印象を受けました。
思いついたキーワードは「依存」です。
真面目で清楚な瑞月は、自分が好きな人に過度に依存し、過度な関心を寄せ、求めてしまいます。
彼女のドラマチックな行動は、まるでドラマの主人公のようで、その悲劇的なヒロインさが際立っています。
実際、現実世界でもこのような依存的な行動を見かけることがあります。
自分を「可哀想だから」と思うのを避けようとしても、無自覚の状態でその依存行動を続けることが、自己犠牲的な悲劇を生むことになります。
このような行動が、周囲の人々に不安や混乱をもたらすこともあります。
隆良
隆良は非常に自己主張が強く、彼の姿勢を見ていると、私は一番共感を覚えたかもしれません。
彼の個性を堂々と表現する態度は、現代のフリーランス志向がますます広まっている兆候の一つであると感じました。
隆良は自身の中に確固たる正義を持ち、他人に対して容赦なく主張します。
彼の就活の姿勢は、自分の信念を大切にしながらも、外側と内面との乖離が生じているように見受けられます。
この状態は、自分自身に対して嘘をつくことで、本当の自分がどれなのか分からなくなってしまうジレンマを抱えています。
隆良が自分自身をどのようにとらえているのか、その葛藤について考えると、彼のシーンを見ることはわくわくしつつも、同時に見たくない気持ちも湧き起こりました。
この葛藤は、彼自身にとって大きな課題となっていることが伝わってきます。
しかし、彼の闇についてもまた別の側面があるようです。
劇中で、隆良が烏丸とのコラボが実現しなかった際の言い訳は、彼の自己肯定論がどんどん表面化しています。
しかし、この自己肯定論は、彼とは対照的な瑞月によって論破されてしまいます。
彼は自分自身を納得させるための理由を何にでも付け、他人の意見をあまり気にせず、自己主張しようとする傾向があります。
この態度は、強がりや見栄を張ることと同時に、他人に理解されたいという願望の表れでもあると考えられます。
このような行動は、他人に自分を認めてもらいたいという欲求と、自己肯定感を高めるためにかっこいい理由を付けることが交錯しています。
個性を持ちながらも、社会の大きな枠から抜け出せないジレンマがあります。
果たして、これを個性と呼べるのでしょうか?
という問いかけが浮かび上がります。
理香
理香の闇は本当に深すぎますね!
特にクライマックスの場面は、彼女の激しい感情表現がヒステリックで、正直、驚きと恐怖を感じました。
しかし、同時に彼女が口にする言葉には、不気味ながらも共感を覚えてしまい、その気持ち悪さに耐えるのが難しかったです。
実際に「うわぁ…」と声を漏らしてしまうほどでした。
彼女は終始自分の頑張りや努力をアピールすることに余念がありません。
彼女は完全に自己中心的で、自身の存在以外をほとんど意識していないように見えます。
このようなタイプの人は、SNSが普及している現代社会では特に多いのではないでしょうか。
彼女は中身のない称賛を浴びることで自己価値を感じ、他人からの支持を獲得しようとします。
しかし、本質的にはそれが彼女の真の価値ではないにも関わらず、自分を取り巻く状況を操り、他人に「頑張っている」と思わせるために様々な努力をするのです。
彼女の言葉の裏には、「そう思われるためにやっているんだよ、当たり前だろ?」という本音が隠れているように聞こえます。
このような自己中心的なアプローチに固執し、自分を大好きな彼女の姿が、時には不快さを引き起こすこともあります。
拓人と比べて、理香の方がよっぽど優れた分析力を持っているのではないかと思いました。
彼女はSNSを辿る方法を駆使し、どうすれば相手に接触できるかを分析します。
この行動は、彼女の武器であると言えます。
しかし、それが彼女の知りたさや他人より上に立ちたいという欲求を強調し、結果的に病的な状態に陥ってしまいます。
この描写は、現代社会における情報の簡便な入手方法と、それが引き起こす欲求との相克を象徴しており、気持ち悪いと感じました。
朝井リョウの作品は、誰かが救われる物語ではなく、問題提起を中心に据えており、読者や観客に考えさせるスタイルが特徴です。
理香の行動についても、どのように進展するのかは不明で、視聴者や読者が独自に考える余地がある作品です。
要するに、この作品は考えることを促すメッセージを持っているのだろうと感じました。
拓人
主人公の拓人。
彼の視点で物語が描かれますが、彼のSNSへの依存度は実際にかなり高いです。
私も学生の頃には同じようなことをしていましたが、今となってはなぜあんなことをしていたのか不思議に思います。
映画「何者」を見て、「ああ、そういえばそうだった」と思い出しました。
自分を斜めから見つめ、現状を傍観し、そのコミュニティの中で自己主張をすることで、自分に言い聞かせるようなものでした。
おそらく彼自身、それが良いことではないと気づいていたはずで、理香に指摘された際には大いに動揺したのでしょうね。
実際、これはただの他人の批判に乗せられて、自己存在を主張する行為であり、だれでもよくないことだと自覚しているはずです。
それでも続けなければ自分を保てないほど、摩耗した心は、言葉や外見だけでは判断がつかなくなり、人の裏を見て本質を見抜かなければやっていけなくなっていたのでしょう。
映画の中でのセリフ、「頭の中にある内はいつだって何だって傑作なんだよ」という言葉が、拓人にとって自己肯定感を投影し、Twitterの裏垢「何者」を通じて外界に表れました。
この言葉は、頭の中で考える際には本当に傑作だったかもしれません。
しかし、それを外に出すことで理香に否定され、拓人の傑作は変容しました。
特に、拓人の烏丸ギンジへのLINEでの憤りを回想するシーンは、彼の自己主張が他人に押し付けられる様子を示しています。
人は相容れない相手に対して、自分が正しいと証明しようとすることがあります。
この行動は、余裕がない自分の姿を反映しており、それが「何者」という作品の一部なのでしょう。
人の闇を淡々と描写した作品
「何者」では6人それぞれの闇が共感性を生み出しましたが、その中で人間の暗い部分(もしくは自己の部分)が常に映し出されている印象を受け、非常に怖い映画でした。
「就活ヤバい」と言っている同級生たちは、夜には居酒屋で飲み、友人と時間を過ごし、愚痴をこぼすことが多く、少し気分が沈むと死にたいとSNSでつぶやく、といった生活をしている、というような日常生活を描いた映画だと予想していました。
しかし、実際の映画は私の予想とは大きく異なり、人の闇を淡々と描写した作品でした。
「就活」が物語の中心にあるにもかかわらず、登場人物の心の闇は場所に関係なく広がっていると感じました。
他の人々を蹴落として自己を確立しようとする
冒頭で述べた通り、私は「桐島、部活やめるってよ」が大好きで、何度も楽しんでいます。
この作品は何度も鑑賞したくなります。
しかし、「何者」は気分が悪く、もう見たくありません。※褒めています。
これらの作品は朝井リョウの作品でありながら、なぜこんなにも異なる印象を与えるのでしょうか。
「桐島」には、次のようなセリフがあります。
「結局できるやつは何でもできるし、できないやつは何もできないっていうだけの話だろ」
この言葉は、宏樹という才能がありながらも何も努力しない人間が口にするもので、非常に現実的で批評的なメッセージを持っています。
これは真理ではないかもしれませんが、ぼくはたぶんこのスタイルに共感します。
高校生のストーリーでさえ、この言葉は強く刺さりました。
このような発言を繰り返すと、周りの人々は賛同するか賛同しないかに分かれていきます。
「桐島」では、はっきりとした自己実現のストーリーが展開され、それぞれのキャラクターが自分自身を確立しようとします。
一方、「何者」では、馴れ合いの中で自分を形成し、他の人々を蹴落として自己を確立しようとする就活対策本部が存在します。
これは馴れ合いの中で自分を異なるものに仕立て上げ、自己実現を目指すという感覚です。
言い換えれば、「桐島」は個々のキャラクターが自分のスタイルを確立し、自己実現を目指すストーリーであるのに対し、「何者」は馴れ合いの中で裏で陰湿なやり取りが行われ、自分を昇進させるための騙し合いが描かれる陰湿で暗いストーリーです。
このようなテーマやアプローチが、「何者」を見たくない理由となっています。※褒めています。
まとめ
そんなわけで、私は映画「何者」をもう見たくないと感じています。
この120分間の映画は、様々な闇を組み合わせたもので、どのような感想を持つかは人それぞれだと思います。
この映画を見た後、どのように感じたか、または共感できるかどうかについて、皆さんの意見を聞いてみたいです。
もしかすると、全く共感できないと言い切れる人もいるかもしれませんが、このような多様なテーマを探求する作品では、異なる感想や意見が生まれることは自然なことです。
先程も述べたように、この作品は問題提起を行うものであり、特定の解答や押し付けは存在しません。
映画「何者」を観たことで、荒れた心が浮き彫りにされた場合、それにどう向き合うかは各自の自由です。
ぼくが個人的におすすめするのは、自己分析を通じて自分自身をしっかりと見つめ直すことです。
たぶん、映画を観た後にこのような感情になるのは、自分の内面に目を向けていなかった部分があるからかもしれません。
自己分析を通じて、あなたはもう一度自分の原点に立ち返ることが必要かもしれません。
答えは決まっていませんが、このような作品は消化不良を感じさせることがあります。
また、映画「何者」を見て自己分析を行うことは、非常に重要だと思います。
自分の内面に目を向け、気づかなかった部分に気づいたら、それを活かす方法を模索するのも一つの道です。