いつの時代も、高潔で正義感溢れるヒーローは人気です。
格好良くて、子供も大人も憧れることでしょう。
では、その反対の人物は?
善を軽視し、犯罪をいとも簡単に犯すような人物。
アメコミ的な用語で言えば「ヴィラン」ですね。
こういった人物はどうでしょうか。
賛否両論あるでしょうが、やはりヴィランにも魅力的な人物が存在します。
決して憧れるような人物ではないものの、ついつい興味を持ってしまうのです。
そして、その代表格は、バットマンの宿敵である「ジョーカー」。
今回ご紹介していくのは、「悪のカリスマの誕生」を描いた映画「ジョーカー」です。
しかしこの作品、今までのジョーカーが登場した作品とは一味違います。
一体何が、どう違うのでしょうか。
この記事では、そんな点に重点を置いて、映画「ジョーカー」を解説していこうと思います。
特殊であり独特! 映画「ジョーカー」の世界
映画「ジョーカー」は2019年に公開の、バットマンの宿敵であるジョーカーを主人公にした映画作品です。
監督はトッド・フィリップス。
主演は「グラディエイター」などで知られるホアキン・フェニックス。
今作「ジョーカー」は有名なアメコミ作品「バットマン」に登場する人物のスピンオフであるものの、他の映画や漫画とは全く別の世界観を描いたものとなっています。
そのため、他の作品を知らずとも楽しめることが特徴です(勿論、知っていた方が楽しめる可能性も高まります)。
また、今までとは一風違う「ジョーカー像」を見られることも、魅力の一つです。
映画「ジョーカー」のあらすじ
1980年代のゴッサムシティ。
街の景気は悪く、人々は荒んでいました。
主人公のアーサー・フレックは、そんな街に住む中年男性。
病気を抱え、職業はアルバイトのピエロ。
母親を養い世話をする毎日です。
勿論、生活は楽ではありません。
しかし、アーサーには一つの夢がありました。
それは、尊敬する芸能人であるマレー・フランクリンが認める、一流のコメディアンになること。
そして、マレーが司会をする番組に出て、脚光を浴びることでした。
しかし、アーサーの生活はどん底へ転がり落ちてしまいます。
同僚に「護身用に」と持たされた拳銃が仕事中に見つかり、クビになってしまったのです。
そして、その同僚はアーサーを裏切りました。
クビを宣告された帰り道、地下鉄でアーサーは女性に強引に迫る、3人組の男性を目にします。
そのとき、アーサーが発作を起こしてしまいました。
笑いが止まらないアーサーを見て、3人組は彼に暴行を加えます。
そしてアーサーは、突発的に拳銃を彼らに向けてしまったのです。
これが、将来「ジョーカー」になるアーサーの、初めての殺人でした。
これまでとは違う「ジョーカー像」を描く
これまでにバットマンの映画を見たことがある人ならば、おそらく多くの人が、ジョーカーに対して特定の印象を抱くことでしょう。
その印象とは、ジョーカーが「悪のカリスマ」であるということ。
それは演じ手が、ジャック・ニコルソンやヒース・レジャー、ジャレッド・レトの誰であっても変わりません。
狂気的な犯罪者(つまり、好かれるはずの無い)でありながら、どうしても引き寄せられてしまう何かがあるのです。
では、今作「ジョーカー」はどうでしょうか。
初めてこれを見た人は、違和感を抱くはずです。
これまで見知ってきたジョーカーとは、一味も二味も違う。
この映画は、そんな雰囲気を序盤から充分に感じさせてきます。
違和感とも、この映画の魅力とも取れるこの雰囲気。
一体どういうことなのか解説していきます。
「解放」の象徴
ジャック・ニコルソンの「バットマン」、そしてヒース・レジャーの「ダークナイト」。
それぞれに登場するジョーカーは、一つの概念を象徴するものでした。
その概念とは、「悪」そのもの。
上記のジョーカーは、犯罪を楽しみ、人を殺すことを何とも思っていません。
特に、「ダークナイト」のジョーカーは顕著です。
人の心を弄び、ゲーム感覚で殺し合いをさせることからも分かるでしょう。
そしてなにより、彼らの「悪」は純粋です。
罪悪感や良心などをどこかに置いた「混じり気の無い悪」。
この純粋さ、混じり気の無さは、決して私達には真似できないもの。
それが転じて、彼らの持つカリスマ性に繋がっているのでしょう。
映画「ジョーカー」はどうでしょうか?
今作に登場するジョーカーは、最初の内はあくまでも人間・アーサーです。
彼は、病気(トゥレット障害)に悩まされ、貧しい生活を送りながら母親の面倒を見るという、相当に不遇な人生を送っています。
アーサーは決して、悪い人間ではありません。
むしろ、病気という逆境に負けず夢を追うことができるような、健気で努力家な人物と言えるでしょう。
また、人のことを考える優しさも持ち合わせています。
彼の障害となるのは、第一に病気、そして第二に、彼が暮らすゴッサムシティの世知辛さと言えるでしょう。
そこから映し出されるアーサーには、「悪のカリスマ」の片鱗は全く見えません。
物語が進み、アーサーが「ジョーカー」と化してからも、他の作品に見られるようなカリスマ性は感じ取れないのです。
有名な、アーサーが階段で踊るシーンは美しいものではありますが、「純粋な悪」の美しさとは違います。
そこにあるのは、ただひたすら「スッキリ」とする感じ。
一度この映画を見た人なら、お分かりでしょう。
アーサーが階段で踊るシーンを見たとき、スッキリとした気分になった人は少なくないはずです。
「ああ、とうとう来るべきものが来た」。
この映画は、緊張するシーンが多く、次に何が起こるのかとハラハラさせられ通しです。
その連続に疲れ果てた時に現れるこのシーンは、強いカタルシスを呼び起こすのです。
そして、映画後半にあたるあるシーン。
人々が暴動を起こし、アーサーがその中心的存在に祭り上げられるシーンにも、似たような感覚を覚えさせられます。
これらのシーンで描かれるのは何なのでしょうか。
それは、今まで自分をがんじがらめに縛り付けていたものからの解放です。
階段のシーンは、身近な物事から、また、将来の憂慮から解放されました。
なぜならば、彼は自殺するつもりだったからです。
そして、暴動のシーンでは、「アーサー・フレック」という自分自身そのものから、解放されました。これからは、彼はアーサーではなく「ジョーカー」なのですから。
こう考えていくと、映画「ジョーカー」で描かれるジョーカーが象徴するのは、「解放」なのかもしれません。
狂気にのまれたジョーカー
これまで描かれたジョーカーは、しっかりと現実を見ています。
狂気的な犯罪者ではありますが、心の底まで狂気で支配されている訳では無いのです。
むしろ、心の奥底には、とても涼やかな頭をした「本人」がいるはずです。
こう聞くと、少し違和感を覚える人もいるかもしれません。
しかし、考えてみれば簡単です。
人の心を読み、揺さぶるためには冷静な頭が必要です。
狂気だけに満たされた頭では、それを成功させることなどできないでしょう。
今作のジョーカー、もとい、アーサーはどうでしょう。
彼は元々、普通の人間でした。
暴力を受けてもなすがまま。
黙って耐えて反撃することなどできません。
また、「人を笑わせる」という夢を抱きながら、甲斐甲斐しく老いた母親の面倒を見る、心根の優しい人物でもあります。
この点は、彼を陥れた人物を殺した際、傍にいた「自分に親切だった人」を逃がしたことからも分かるでしょう。
しかしアーサーは、彼を取り巻く環境が悪化するにつれ、ある兆候を表し始めます。
現実と妄想の区別がつかない。
交際する妄想をしていた女性と、本当に交際していると思い込んでしまう。
アーサーには、もともと空想の世界に逃げ込む癖があったのでしょう。
そしてそれは、初めて殺人を犯したときに、より強いものとなりました。
狂気性の発露。
一旦狂気にのまれてしまえば、治すことは困難です。
そして、狂気を孕んだ男を描いていくということは、私達(見ている側)にとっても、現実と妄想の区別を付けることは難しくなります。
特に、作品内で明示していないのであればなおさら……
今作のジョーカーは、決して頭脳犯的側面を持つジョーカーではありません。
殺人による狂気に溺れてしまった、人間ジョーカーなのです。
暴動の中で祭り上げられ、「ジョーカー」となったアーサーは、現実の人物なのでしょうか。
ストレスフルな映画「ジョーカー」
映画「ジョーカー」で描かれているアーサーの人生は、どうしようもないほど悲劇的です。
生活は貧しく、病気に悩まされ、愛する母は認知症。
仕事も上手く行かず、仲間からも浮いています。
その上、彼の病気の原因には、母の存在が関わっているのです。
映画を見ている人は、このどうしようもない現実を、ずっと突き付けられる状態になります。
見ているだけで心臓が痛く、アーサーならずとも狂気に陥ってしまいそうなほど。
どうしようもなく、アーサーに感情移入してしまうのです。
しかし、そんなストレスフルな状態は、有名な階段のシーンで全て吹き飛ばされてしまいます。
それほどまでにこのシーンは、美しく芸術的で、解放感に満ち溢れているのです。
そして、若干のおしゃれさも。
映画「ジョーカー」は、確かに見る人を選ぶ作品です。
しかし、この階段のシーンを見るためだけにでも、鑑賞する価値はあるはずです。