「ヒミズ」は、古谷実の作品の中で最初にサスペンスホラーをテーマにした作品で、その後「シガテラ」、「わにとかげぎす」、「ヒメアノ〜ル」などが続きます。
このシリーズは2001年から2002年にかけてヤングマガジンで連載されました。
古谷実の作品は、「ヒミズ」から始まるものに共通して、生き物の名前がタイトルに付けられている特徴があります。
このことにより、作者のメッセージが一貫して感じられます。
ちなみに、「ヒミズ」はトガリネズミ目モグラ科に属する生き物で、モグラよりも小さくて長い尾が特徴です。
あらすじ
中学生の住田祐一(すみだ ゆういち)は、特別なことを避けて、普通で平凡な生活を望んでいる青年です。
彼は実家が貸ボート屋を経営しており、両親が離婚し、母親と二人で生活しています。
住田は自分に特別な能力がないと自覚しており、夢や希望を口にする人々を嫌っています。
彼は自分を特別だと思う人間に腹を立てています。
しかし、ある日、母親が突然男性と姿を消してしまい、それ以降、住田の日常は崩れ始めます。
更に、父親の巨額の借金が発覚し、ヤーサンから脅迫を受けるようになり、普通な日常は次第に失われていきます。
住田は自分の生活を上手く切り抜けられると思っていた自信が、ただの誇り高さだったのか、彼の人生は徐々に崩れ落ちていくのです。
その先には絶望か、希望か。
住田の未来はどのような展開を迎えるのでしょうか。
特別な存在などいない
母親が姿を消し、親元を離れて一人暮らしをすることになった主人公の物語が描かれます。
学校には通えない状況ではありますが、新聞配達やボートの貸し出しの経営などで前向きに生活していく決意を持つ住田の姿が描かれています。
彼は何度も困難な状況に直面しながらも、なんとか立ち止まらずに前進しています。
ところが、ある出来事がきっかけで、彼の世界は一変してしまいます。
父親を殺すという衝撃的な事件によって、住田の築き上げた努力が一気に崩れてしまうのです。
これにより、彼は絶望や孤独を感じるようになり、自分の中の抑えられない感情と、現実の厳しさに耐えることができなかったのです。
普段から普通であることを自覚していた住田は、意外なことに「殺し」という極めて重い行為を犯してしまう事態に見舞われます。
彼は自身が嫌悪していたタイプの人物になってしまったことに驚きと落胆を感じています。
しかし、住田は次のように述べていました。
「人を殺す者とそうでない者の違いなど些細なことだ。全ては周囲の状況次第だ」と。
住田が実際に父親を殺す瞬間には、興味深い描写が含まれていました。
住田がブロックで父親の頭をゴッ、ゴッと打撃を加えるその近くの住居では、子どもたちが楽しくゲームを楽しんでおり、母親が「ご飯よ」と声をかけています。
住田とその子どもたちとの間にある違いは、環境によるものだけです。
実際、住田はこの後、自分自身を絶つこと、すなわち自殺を考えるものの、その思いを踏みとどまらせています。
ただし、彼は「オマケ人生」と自称し、自身に与えたのはたった一年の期限です。
この期間中に住田の複雑な感情や思考が浮かび上がってきます。
自分は特別な存在だと思っている一方で、どこか本心ではその考えを信じていないような気配も感じられました。
実際、立てた計画は何度も失敗に終わってしまいました。
物語のクライマックスに近づく中、住田は悪い人物を見つけるために街を歩き回ることをやめ、家に戻ることを決意します。
その決断を下したバスの中で見た夢が、特に印象的でした。
バスの内部で、住田が次々と乗客を包丁で襲い斬る通り魔が現れますが、住田はその通り魔を制止し、手荒く制御します。
この出来事を通じて、住田は自分自身を再び「特別な存在」だと感じ、茶沢(住田の恋人)に報告します。
しかし、茶沢の顔が不気味な怪物のように変わり、首が伸びる異様な光景が広がります。
最終的に、住田がこれは夢だったと気づきます。
茶沢の怪物姿の口の動きに注目すると、アルファベットの「O」の形が「お」と発音されていることが分かります。
続くコマでは、怪物が円のような形に変化し、「わ」と発音し、最後に「り」と発音するシーンが描かれます。
このシーンにより、「お・わ・り」という言葉が住田に向けて伝えられていることが示唆されます。
住田にはただ1つの選択肢しか残されていなかったのです。
「生きることに意味を求めるな それこそ無意味だ」という教えは、哲学者ニーチェによるものです。
住田の置かれた状況を考えると、どんな悲劇や理不尽な出来事が彼を襲おうとも、彼はそれに立ち向かい前向きに生きていこうとします。
たとえ生きること自体に何の意味もないとしても、それでもなお生きる道を選びます。
この姿勢こそが、ニーチェが描いた「超人」の姿そのものです。
しかし、住田は「まさか」と呟き、生きることには意味があると信じ、理不尽な出来事に耐え切れなくなってしまいます。
そして、住田は自分自身や他の誰かが特別な存在などではないのではないかと考え、自殺を試みます。
目の前に現れる怪物の正体
ラストに至るまで、住田が見ていた謎の怪物の正体は明かされなかった。
この怪物は一体、住田の何を象徴していたのだろうか。
しかしながら、この怪物は住田だけに姿を現したものではありませんでした。
住田の親友である夜野もまた、殺人を犯した飯島テル彦も、この怪物を見ていました。
飯島は人を殺したという罪悪感や恐怖に苛まれており、その結果、夜野を呼び出して殺害する計画を立てることに至ります。
この時、彼が目撃したのは一つ目の怪物でした。
この描写から、この怪物は極度の恐怖や耐え難い不安など、強烈な感情を象徴していたのかもしれません。
もちろん、物語中で「住田は病気なんだよ」というセリフが繰り返し登場していましたが、飯島のエピソードを通じて、この怪物が単に住田の妄想や精神的な病態だけで説明されるものではないことが示唆されています。
したがって、住田が抱えていた極度の恐怖が具体的に何であったのか、という疑問が残ります。
ラスト一つ目の怪物がこんなセリフを吐く。
「決まってるんだ」
物語が第1巻から展開される中で、住田の内に漂っていたのは「自分は平凡な存在だ」という感覚でした。
夢や希望を抱くことなく、ただ普通に生きることを願っていました。
この「普通であること」に対する漠然とした不安や、「普通」という価値観を何よりも大事にしてきた彼にとって、怪物と呼ばれる恐怖が現実の世界で繰り返し姿を現していました。
実は、漫画「わにとかげぎす」の主人公富岡が描かれるように、住田が父親を殺害する出来事の前から、彼の心には怪物のような恐怖が存在していたことが示唆されます。
このことから、「普通であること」という要素が、彼の内に燻り続ける恐怖の根源であった可能性が浮かび上がります。
では、ニーチェが指摘するような「超人」や「特別な存在」になるべきなのでしょうか?
住田自身はこれを否定しています。
古谷実が後のシリアスな作品で提供する回答が、物語を読み進めることで明らかになるでしょう。
「ヒミズ」は、シリアスな作品の序章的な要素を持ちながら、同時に独自の重要な役割も果たしていると考えられます。