嫌われ者の老人が、近所に住む少年少女との交流をきっかけに少しずつ心を開いていく。
これだけ聞くとありがちで、ハートフルなストーリーを想像してしまいますよね。
しかし、それだけでは終わらないのが、クリント・イーストウッド監督の映画「グラントリノ」。
意固地で無愛想。
その上、差別意識もそれなりにある元軍人。
イーストウッドは監督と並行して、こうしたある意味ステレオタイプな「偏屈爺」を演じています。
その頑固さや意固地さが、この作品を味わい深いものにしているのです。
イーストウッド演じる頑固爺は、その心に何を抱いているのでしょうか。
この記事では、そうしたことに重点を置いて、映画「グラントリノ」を解説していきたいと思います。
イーストウッド色に痺れる! 映画「グラン・トリノ」
映画「グラントリノ」は2008年公開のアメリカ映画です。
主演と監督共に、名優クリント・イーストウッドが務めています。
まるで往年の名作「ダーティーハリー」を彷彿とさせるような、正に「イーストウッド色」を存分に感じられる作品に仕上がっています。
また、イーストウッドはこの作品を期に、俳優業を引退し、監督業に専念することを表明しました。
年を取って渋みを増した彼の演技を、是非この映画で確認してみてください。
映画「グラン・トリノ」のあらすじ
主人公・コワルスキーは意固地で頑固の上不愛想。
正に、周囲の人に嫌われるような人間でした。
そんな彼が愛するのは、妻と愛車「グラントリノ」。
コワルスキーは妻を亡くし、その葬儀に参列していました。
葬儀には、彼の息子とその家族も参列しています。
しかし、コワルスキーは孫たちの格好に我慢がならず、眉をしかめるのでした。
ある日、コワルスキーの家にモン族の不良少年達が忍び込みます。
狙いは彼の愛車グラントリノ。
その一団の中には、隣の家に住むタオも含まれていました。
コワルスキーは彼らに銃を向け、追い払います。
この事件の後、コワルスキーとタオ、そしてその姉・スーの交流が始まります。
コワルスキーは最初の内、その差別意識からタオやスーを遠ざけようとします。
しかし、彼らの頭の良さ、家族愛の強さを見るにつけ、友情を感じるようになっていったのです。
偏屈爺は心に何を抱くのか~映画「グラン・トリノ」解説~
自分の考えを曲げることができず、心がガチガチに固まってしまう。
そんなお年寄りは多いものです。
本作「グラントリノ」の主人公・コワルスキーは、正にそんな老人。
容易に人を寄せ付けず、一緒に過ごすのは(同じように)口の悪い友人達だけ。
息子たちやその家族にも嫌われ、愛車と愛犬を支えに生きています。
人は誰しも、若い時があるものです。
そして、若い時の性格は今とは全く違うこともあり得ます。
コワルスキーも、例外ではないかもしれません。
映画「グラントリノ」を見ていると、彼の心に潜むものに興味をそそられます。
作中で明示されているものは勿論ですが、その心のもっと深い部分を見てみたくなるのです。
この項では、主人公・コワルスキーが心に抱くものを中心として解説していきたいと思います。
差別意識の裏側に
コワルスキーとはどんな人物でしょうか。
彼は先に挙げた通り意固地で無愛想、正に「偏屈爺」の典型です。
そして、差別意識の塊でもあります。
コワルスキーはアジア人を「米つきバッタ」や「イエロー」と呼びます。
これは蔑称以外の何物でもなく、差別意識が顕在化したものと言えるでしょう。
この差別意識は、コワルスキーが偏屈爺であることの表れでもあり、ある意味で、彼のアイデンティティと考えることができます。
コワルスキーは周囲の人に悪態をつき、容易に人を近付けません。
また、教会という場所を毛嫌いしています。
彼の無き妻は、コワルスキーが真面目に懺悔することを望んでいました。
それは妻から神父あての遺言として、「必ず懺悔をさせて欲しい」と言い残していることからも分かります。
コワルスキーの教会嫌い。
それは「教会」という場所そのものが嫌いな訳ではなく、彼が抱く罪の意識が影響しています。
そして、その罪の意識が差別意識へと結びついているようにも見えるのです。
コワルスキーが抱く罪の意識とは、遠い昔に朝鮮戦争に従軍した時の記憶。
人々を、自分の意思で殺したという罪悪感。
「上官に命令されたから」という言い訳が通用しないことへの恐怖感です。
教会で神父に懺悔すれば、自分の罪と向き合うことになります。
それは、コワルスキーにとって最も恐ろしいことです。
そしてその罪悪感と恐怖感が凝り固まり、彼の心に巣食う枷となりました。
コワルスキーはこの枷により、親密な人付き合いを避けるようになったのでしょう。
様々な人と交流すれば、嫌でも自分の内面を見つめる機会が訪れます。
また、自分自身の嫌な面を突き付けられることもあるはずです。
また、コワルスキーの差別意識も、この罪悪感の枷により植え付けられたものだと考えられます。
もし彼が根っからの差別主義者であったなら、襲われそうになっているスーを助けるはずがありません。
見下す対象が苦しんでいたところで、ガチガチの差別主義者には関係ないからです。
しかし、コワルスキーは「イエロー」だなんだと蔑みながらも、スーを救い出します。
自身の車に乗せ、家まで安全に送り届けてあげるのです。
作中でコワルスキーが最も差別意識を出すのは、アジア人に対してでした。
彼が従軍した戦争は朝鮮戦争です。
コワルスキーが殺した人物は、アジア人だと考えて間違いありません。
アジア人を殺した罪の意識が、アジア人に対する差別意識を生んでいるのです。
本来は、善良な人間のはずなのに……
コワルスキーにとってのグラン・トリノとは?
コワルスキーが大事にしているものは、愛車グラントリノです。
これはフォード社の車で、ガソリン食いの典型的なアメリカ車です。
そしてフォード社は、彼が50年務めた職場でもありました。
コワルスキーがグラントリノにかける情熱は、並々ならぬものがあります。
古い車ながら丁寧に整備をし、車体をキレイに保っています。
おそらく、彼が持っている持ち物の中で、一番愛着を感じているものなのでしょう。
車好きの人であれば、コワルスキーのグラントリノに対する感情を理解できるかもしれません。
しかし、彼はそれ以上のものを、グラントリノに抱いているように思えます。
それは、アメリカ人としてのプライド。
そして、フォード社整備工としてのプライド。
性能の良い日本車に乗らず、あくまでも燃費の悪いアメリカ車を愛する精神。
そして、その車を組み立てた職人としての心意気。
つまり、コワルスキーにとってグラントリノとは、彼の「プライドそのもの」だったのです。
プライドが高すぎるのは、決して良いことではありません。
彼の意固地さはプライドによる所も多く、孤独になる原因にもなっています。
しかし、それと同時に、彼が一人でかくしゃくと暮らせている要因でもあるのです。
プライドの形は、その人そのもの。
そしてプライドを失ってしまうと、人は生きてはいけません。
その表れであるグラントリノは、コワルスキーの死後、タオに譲られました。
彼の身内ではなく、親しく付き合った(アジア人の)タオが、彼のプライドの所有者となったのです。
このシーンは、コワルスキーがタオに対して抱く感情が、上手く表現されています。
彼にとってタオとは、自分のプライドを任せても悔いのない(そして、後悔させられないと信じられる)人物。
コワルスキーとタオは、親子を超越するような愛情で結びついているのです。
そして、グラントリノをタオに譲ることで、コワルスキーは静かに眠れるのでしょう。
彼が行くところは静かな所。
彼を現世に縛り付けるプライドは、もう必要ないのです。
自分を許せない人に見て欲しい! 映画「グラン・トリノ」
人間生きていれば、一つや二つ罪悪感を抱くような事態に陥ったことがあるはずです。
そして、その記憶に今も苦しめられている人もいるでしょう。
映画「グラントリノ」の主人公・コワルスキーも、そんな記憶に苦しめられている人の一人です。
彼は罪悪感に苦しめられ、長い年月を嫌われ者として生きてきました。
しかし、コワルスキーは自分の人生の最後に、かけがえのない人物と出会います。
それが、タオとスーという姉弟。
二人との出会いは彼の心をほぐし、自身の過去を許すことができたのです。
この過程を見ていると、じんわりと心に来るものがあります。
そして、最後の最後に彼が取る選択に賛成するような、止めて欲しいような……。
とにかく複雑な気分になります。
自分を許すことができれば、未来の選択肢が広がります。
しかし、それは勇気のいることでもあるでしょう。
もし、自分を許せず悩んでいる人がいるならば、一度この映画を見てください。
コワルスキーの表情の変化に、勇気づけられるはずです。