暴力がメインの描写として存在しながらも、その本質は別のところにある。
そんな奇妙な構造を持つ作品が存在しています。
その作品こそが、映画「ファイトクラブ」。
公開から20年以上が経ってもなお、いまだカルト的人気を誇る今作。
この映画の魅力は、じっくり練りこまれた脚本と、斬新な映像表現にあります。
また、今作のブラッド・ピットに強烈な印象を植え付けられた人も多いことでしょう。
今回の記事では、映画「ファイト・クラブ」の批評と、実際に見た感想を書いていこうと思います。
ネタバレも含まれますので、読む際にはご注意ください。
映画「ファイト・クラブ」の作品概要
映画「ファイト・クラブ」は1999年に公開された、チャック・パラニュークの同名小説を原作とするアメリカ映画です。
監督は「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」や「ソーシャル・ネットワーク」で知られるデヴィッド・フィンチャー。
主演は「インクレディブル・ハルク」のエドワード・ノートンに、ハンサムかつ名俳優のブラッド・ピットがダブルで出演しています。
今作は激しい暴力描写と、サブリミナル効果を用いた映像表現、さらにはどんでん返しがあることで知られています。
ストーリーは見ごたえのあるものですので、何度か繰り返してみることをおすすめします。
あらすじ
物語の主人公の「僕」は、自動車会社のリコール担当として働いています。
彼は裕福ではあるものの、精神的に満たされず、不眠症に悩まされる日々を送っていました。
しかし、彼の主治医は睡眠薬を出してくれません。
もっと辛い思いをしている人がいるというのです。
「僕」は主治医の言葉から、睾丸がん患者の集いに顔を出すことにしました。
勿論、睾丸がんだと偽ってのことです。
彼はそこでボブと出会い、辛さを話し合い涙を流しました。
そしてその夜、彼は驚くほど深い眠りに落ちることができたのです。
それからの「僕」は、病気と闘う人が集う自助グループに通うようになりました。
彼はつかの間の精神的安定を得ましたが、不思議な女性・マーラと出会うことですべてが崩れてしまいます。
彼女・マーラもまた、「僕」と同じ異分子だったのです。
王道的でありながら斬新な傑作~映画「ファイト・クラブ」の批評~
世の中には、想像できるストーリーから大きく外れた結末を迎える「どんでん返し映画」というジャンルが存在しています。
これは、映画ジャンルの中でも相当人気があるもので、かなりの数の作品が作られています。
映画好きの人であれば、好きな「どんでん返し映画」の作品名をいくつか挙げることができるでしょう。
今回取り上げている「ファイト・クラブ」は、そんな映画群の中でも特に有名な作品です。
むしろ、どんでん返し映画の代表格と言ってもよいでしょう。
「ファイト・クラブ」をどんでん返し映画にしているのは、物語の設定にあります。
その設定とは、いわゆる「二重人格もの」であるということ。
今作のキーパーソンであるタイラー(演:ブラッド・ピット)は、「僕」が考える男性の理想像です。
物事をよく知っており、腕っぷしが強く、セックスも強い。
「僕」はタイラーに人格を明け渡すことで、理想の自分として行動することができたのです。
勿論、タイラーは「僕」の望みを熟知しているため、それを叶えるために動いています。
タイラーが行動するのは、「僕」が寝ている間だけ。
そのため、「僕」にタイラーの記憶はありません。
不眠症に悩む僕が短い眠りに落ちた後、別の場所で目が覚めるのは、タイラーが移動した先で起きてしまうためです。
不眠症に悩まされるうえ、寝ている間も体は動いている。
そして不眠症は6か月も続いている。
「僕」の心身は疲弊しています。
そもそも、タイラーが生まれた原因は、ストレスを由来とする不眠症にあるのでしょう。
こうしてみてみると、「ファイト・クラブ」の設定や筋書きはありがちなもので、変わり種という訳ではありません。
むしろ、二重人格という設定自体、王道的だといえるでしょう。
しかし、「ファイト・クラブ」はただの王道ではない、斬新さも持ち合わせています。
例えば、「ファイト・クラブ」のマイナス面として挙げられることの多い、過激な暴力描写。
これは、映画序盤の「僕」とタイラーの殴り合いから始まります。
二人で始まった殴り合いは、やがてファイトクラブという大きな組織にまで発展し、夜な夜な男たちが殴り合うという光景が繰り広げられることになります。
普通、暴力というのは相手を叩きのめすために行うのが基本です。
そして、暴力描写を取り入れている映画は、その基本に則って描写します。
つまり、「相手を倒してやろう」という気迫が、登場人物に現れるのです。
では、「ファイト・クラブ」はどうでしょう。
ファイトクラブに集う男たちには、一切の敵意がみられません。
むしろ、殴り合いの後にはお互いの笑顔が待っています。
ファイトクラブでの殴り合い。
これは、相手を倒すためのものではありません。
すべては自分自身のためです。
相手を壊すのではなく自分を壊して、ストレスや現状を打破しているのです。
さらに言うならば、今の自分から脱皮するために必要な行動なのかもしれません。
ファイトクラブのメンバーたちはスペース・モンキーへ。
「僕」は、テイラー的性質を持つために。
自身の手を焼く行為や、コンビニ裏で店員を脅すシーンも、それらの「目的」を象徴するものでしょう。
暴力的な行為によって、自己(もしくは他人の思い)を変化させているのです。
「ファイト・クラブ」は、確かに暴力的な映画です。
殴り合い、血が出て、歯が抜けます。
ときには大けがをして、病院に行く必要だってあります。
しかし、人は死にません。
唯一の死人はボブだけ。
彼の死因も、クラブメンバーからの暴力ではありません。
暴力描写を大胆に用いながらも、「敵を倒す」ことを目的としない映画。
これが、今作の斬新な部分ということができるでしょう。
先にも書いた通り、「ファイト・クラブ」の設定自体は至極当たり前の王道的なものです。
しかし、その王道路線と斬新な描写が合わさり、今までにない傑作映画となっています。
作中で使われているサブリミナル効果と物質主義に対する反抗。
これらは、さまざまな人が言及していますので、ここでは触れないでおきましょう。
映画「ファイト・クラブ」を見て
「死」とは怖いもの。
できるだけ避けて、遠ざけておきたいもの。
そして、できることなら直視したくないもの。
ラテン語の言葉に、「メメントモリ」という言葉があります。
これは「死を忘れるな」といった意味であり、主にキリスト教で使われています。
死は避けられないもののはず。
それから目を背けずに、しっかりと見据えなさいといったことを伝えているのでしょう。
映画「ファイト・クラブ」を見たとき、私は真っ先にこの言葉を思い出しました。
主人公の「僕」が不眠症を改善するきっかけとなったのは、死期が近い、もしくは、死を間近に見た人々が集う会合です。
「僕」は死の匂いを嗅ぎ取ることで、精神的な安定を得ました。
ファイトクラブでの殴り合いも同じ。
血が出て、けがをするということは、健康な状況よりも死が近いといえるでしょう。
周りの音が遠く感じるのは、精神的な安定を得て、ある意味で悟りの境地に達していたように感じます。
これが、「メメントモリ」と言わずして、何なのでしょう。
この映画には、はっきりとした異分子が存在しています。
それが、主人公と奇妙な関係を結ぶマーラ。
彼女は死を言葉にし、望むようなそぶりを見せています。
しかし、一番死から遠い所にいる人間でもあります。
喉元を打ち抜き、より死に近づいた「僕」。
そして、そんな「僕」と手を取り合い、崩壊していくビル群を見つめるマーラ。
彼らは最後に、何を考えたのでしょうか。
彼らのその後はどうなるのでしょうか。
それを考えるためにも、もう一度じっくり見返してみたいと思います。
まとめ
名作映画と呼ばれるものは、皆、どこかしら尖っているものです。
そしてそれは、今作「ファイト・クラブ」も同じです。
この映画は、どんどん続きが見たくなる映画です。
確実に面白く、見て損の無い作品だということができます。
しかし、万人におすすめできるとは到底言えません。
あまりにも尖りすぎているからです。
多重に張り巡らされた伏線の数々、見ているだけでは辛くなるほどの暴力描写、しっかりと考える必要があるストーリー。
これらが大丈夫なのであれば、ぜひ「ファイト・クラブ」を手にとってみてください。
必ずや、面白い映画体験ができるはずです。