あらすじ
ある日、春日部で突然「20世紀博」という特別なテーマパークが開催されました。
このパークは、過去のテレビ番組や映画、日常生活などを忠実に再現し、懐かしい雰囲気に浸ることができる場所で、大人たちは大いに興奮しました。
しかし、しんのすけを含む子供たちには、あまり興味を持つことができませんでした。
大人たちは毎日のように夢中で遊びに行く一方で、子供たちはそれぞれ別の遊びに興じていました。
このテーマパークの影響で、ひろしは会社に行くのを怠り、みさえも家事をおろそかにし、しんのすけはひまわりの世話をするようになってしまいました。
しかし、実はこのテーマパークは、「ケンちゃんチャコちゃん」というグループのリーダーを中心とする大人たちだけの楽園を築き、時間を止めてしまうという、恐るべき「オトナ」帝国化計画の一環だったのです。
大人に響く作品
素晴らしい作品でした。
この一言でレビューを締めくくるに相応しいほど、名作と感じました。
上映時間は95分で、絶妙なテンポが保たれていました。
春日部に急に現れた「20世紀博」というテーマパークの影響で、大人たちが次々と姿を消してしまうという事件が描かれています(特にひろしとみさえ、そしてふたば幼稚園の先生たちの変わり果てた姿は、現在観ても印象的です。実はクレしんの映画には、意外とホラーなシーンがちりばめられているのです)。
緊迫感漂う状況に、随所に挿入されるギャグが個々に面白く、この緊迫感とリラックス感の絶妙なバランスが、最初から最後まで飽きずに楽しむことができる要因となっています。
また、意図されたターゲット層であるはずの子供たちよりも、むしろ子供たちを連れて映画館に足を運んだ大人たちに響く素晴らしいシーンが多数存在します(この点については後ほど詳しく触れます)。
そして、この作品が2001年4月21日、つまり21世紀に入ってから公開された事実は、本当に素晴らしいことだと感じます。
全体的な印象を述べたところで、特に心に残った要素について詳しく語っていきたいと思います。
「匂い」と「感情」の結びつき
物語の舞台となる万博「20世紀博」のテーマは、人類の「進歩」と「調和」です。
このテーマを利用して、ケンとチャコは大人たちを20世紀に閉じ込めて「時間を止め」、その結果日本中に「混乱」を引き起こします。
多くの家族が20世紀博を訪れますが、どの家族も子供たちは既に飽き飽きとした表情を浮かべており、これに対照的に大人たちは心から楽しそうな笑顔を浮かべています。
子供たちにとって「懐かしい」とはどういうことか、理解できない状況が描かれています。
この大人と子供の対比・対立構造が作中全体を通じて一貫しており、物語の軸が途切れることなく展開されています。
また、物語の中盤では、かすかべ防衛隊がサトーココノカドーの屋上から見下ろす景色が描かれます。
その景色には、「大人たちが去った真っ暗で寒々しい春日部の街」とその向こうに輝く「花火が打ち上げられ、輝かしくライトアップされた20世紀博」が映し出されます。
このシーンも非常に印象的です。
そして物語の終盤では、未来を取り戻すために大人たちを過去に引き戻す「匂い」の拡散を阻止すべく、野原一家がタワーを登る姿が描かれます。
この壁を乗り越える瞬間に、非常に感情的な瞬間が生まれ、強烈な感情移入が起こります。
余談ですが、この時代において「匂い」と人の「記憶」や「感情」との結びつきに焦点を当てた点は、驚くべきことですね。
現代では広く認識されるようになっていますが、当時、そのようなアイディアに注目したことは素晴らしいことです。
音楽の使い方が見事
「ベタを丁寧に表現する」という表現が見事に映えるBGMの活用が見受けられます。
たとえば、作品の開始から21分経ったところで、20世紀の風景が描かれるシーンには、『白い色は恋人の色』(ベッツィ&クリス)が流れます。
この曲が背景で流れる中で、切ない夕焼けとケン、チャコの哀愁漂う表情が、「夕やけの赤い色は想い出の色」という歌詞とともに美しく描かれています。
同様に、物語の中盤(44分付近)では、「子供狩り」から逃れるため、かすかべ防衛隊がサトーココノカドーから逃げ出すシーンが描かれます。
このシーンでのBGMの選曲は、コミカルさと緊迫感を見事に組み合わせています。
かすかべ防衛隊が走る際にはテンポの速い音楽が流れ、途中で立ち止まったり隠れたりする際には一瞬の静寂が広がります。
これにより、イスとりゲームやだるまさんが転んだ、といったイメージが浮かび上がるかのような効果が得られています。
物語のクライマックスとも言える最終盤では、野原一家がタワーを駆け上がるシーンが印象的です。
この場面で流れる名曲「21世紀を手に入れろ」は、ただ聴くだけでも涙腺を刺激されるほどの感情が込められた楽曲です。
タワーを登る一家の様子が、BGMと見事にシンクロし、情熱的なエネルギーが伝わってきます。
野原一家が前進する姿勢を力強く描きながら、最後の階段を駆け上がるしんちゃんの姿が登場します。
この瞬間が、楽曲の転調と大サビのクライマックスと一致する瞬間であり、感情移入を高める演出が巧みに行われています。
このように、BGMの選曲と映像が見事に組み合わさり、物語の感動を最大限に引き出しています。
ケンの葛藤
今作の敵組織「イエスタデイ・ワンスモア」については、一言で「悪」と片付けることはできず、その深みが印象的です。
ケンとチャコの指導の下、「イエスタデイ・ワンスモア」は、21世紀の日本が腐敗し、活気を失った現状を20世紀のような躍動する国に戻すという思想に基づいて行動しています。
彼らは、自分たちなりの正義を持って事件を引き起こしており、その行動が実際には国家規模のテロであることも事実です。
しかし、大人になった今でも、その思想に大きな共感を抱くことができる要素が存在します。
野原一家の行動によって、彼らの信じる正義や気持ちに大きな影響が及ぶこととなります。
物語が終盤に差し掛かると、しんちゃんが20世紀博の中で、子供時代のひろしを見つけます。
しんちゃんはひろしに戻ろうと呼びかけますが、ひろしはその耳を貸さず、しんちゃんはケンが言った「匂い」という言葉を思い出し、ひろしの靴の臭いを使って正気を取り戻させます。
同様に、みさえも正気を取り戻し、野原一家は再び団結します。
この様子を監視カメラの映像で見ていたケンは、野原一家を20世紀の街に招待し、自身の最後の計画を明かします。
そして、彼らに「未来を手に入れて見せろ」と言葉を投げかけます。
この時点で、ケンは野原一家を戦力的に無力化することが可能でしたが、計画を明かし、彼らに希望を託すような言葉をかけます。
「もしかしたら、この家族のように未来(21世紀)に希望を持つこともできたのかもしれない」
「しかし、今さら計画を止めることはできないし、その気もない」
ケンの内面で揺れ動く葛藤が感じられます。
しんちゃんがタワーを上り切る直前、ケンとチャコを乗せたエレベーターは匂いの装置がある最上階に到着しますが、この時、ケンは階段をちらりと見ます。
ここでも、最初は21世紀を嫌悪していたケンの気持ちが変化していった過程が見て取れます。
単に偽物という事で片づけることはできない
今でも色褪せぬ名シーンが多数存在し、何度観ても心に感動が広がります。
特に「ひろしの回想」から始まる終盤のシーンは、確かに映画史に刻まれる名場面と言えるでしょう。
20世紀博におけるひろしの足の臭いを使ったシーンでは、万博の建物(パビリオン)がすべて「ハリボテ」であったことが明らかになります。
また、ケンが再現した20世紀の街並みに対し、ひろしは「映画のセットみたいなもんだろ、良く出来てても、所詮ニセモノだ」と率直な感想を述べます。
ケンはこれに対し「俺も住人達もそう思ってない」と反論し、ひろしとみさえも、街が偽物であることは理解しつつも、その中に呼び起こされる懐かしさに一瞬惹き込まれます。
この街そのものは故意に再現された模造品かもしれませんが、その再現によって喚起される記憶や感情には、ひろしやみさえ、ケンやチャコといった登場人物たちが過ごしてきた、本物の人生が投影されています。
こうした背景から、作り出された都市の美しさが一層際立ち、街を離れる瞬間がなんとも切ないものとなります。
ひろしの涙を見ると、単に偽物として片付けることができない人間の情熱と葛藤が垣間見えます。
また、この視点をメタ的に捉えると、このシーンはこの映画に限らず、他の創作物にも通じる重要なテーマであると思います。
それは、作品や物語の中での架空の出来事や場所が、現実には存在しないものであっても、それを通じて喚起される感情や記憶が本物であり、人々にとって意味深いものとなるということです。