漫画「鋼の錬金術師」の考察と批評。

今は鬼滅の刃だ呪術廻戦だと週刊少年ジャンプの作品が取り沙汰されているのですが、月刊少年ガンガンの存在も忘れてはいけません。

その月刊少年ガンガンの代表作とも言われているのが「鋼の錬金術師」です。

アニメをリアルタイムで見ていたという方も多いのではないでしょうか?

完結してからもう10年以上経っているのですが、今見ても純粋に楽しめる漫画です。

そこで今回は改めて漫画「鋼の錬金術師」について考えていきたいと思います。

鋼の錬金術師は子どもの戦いであり、子どもの成長物語でもある

鋼の錬金術師が紹介されるときにはダークファンタジーという表現がよく登場します。

確かに世界観などを考えるとダークファンタジーという表現はピッタリなのですが、そこで描かれているのはものすごく突き止めていくと子どもの戦いと子どもの成長なのではないかと思います。

実際に主人公であるエドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックは子どもです。

もちろん、作品の中で精神的にも肉体的にも成長していくことになるのですが、基本的には子どもたちがさまざまなものと対峙し、戦っていくわけです。

エドワードとアルフォンスはヴァン・ホーエンハイムとトリシャの子どもであり、ホムンクルスの親玉はホムンクルスたちから「お父様」と呼ばれていました。

エドワードとアルフォンスがホムンクルスたちと戦うのはまさに子ども同士の戦いです。

もちろん、ホムンクルスたちの中にはイレギュラーな存在もいるわけですが、最終的にはエドワードとアルフォンスはホムンクルスたちとの戦いに勝ち、お父様にも勝つのです。

子ども同士の戦いに勝利し、大人との戦いにも勝利する……これは長きにわたる戦いに決着がついたというだけではなく、子どもの大きな成長を描いているとも言えるのです。

ちなみに、「子どもの戦い」というと同じ月刊少年ガンガンで連載されていた「魔法陣グルグル」を思い出します。

世界観はまったく異なりますが、魔法陣グルグルでも子どもの戦いと成長が描かれていました。

ある意味では対比になる作品なのかもしれません。

強いけど弱いという矛盾

エドワードとアルフォンスは同年代の子どもたちと比較すれば、あり得ないほど強いです。

ただ、その一方で作中ではエドワードやアルフォンスよりも強いキャラクターたちがわんさか登場します。

敵味方関係なく、鋼の錬金術師に登場するキャラクター同士で戦わせたとしたらエドワードとアルフォンスも早々に退場することになるでしょう。

「鋼の錬金術師ほど主人公より強いキャラクターが出てくる作品はない」と言われるのも納得です。

ただ、この強いけど弱いという矛盾をはらんでいるからこそ読者の心も揺さぶられるわけです。

たまにテレビなどを見ていると有名人の名前を出して「あの人は本当に完璧だから~」と言っていることがあるのですが、他人から完璧に見えたとしても人間である以上は完璧ということはあり得ないと思います。

どれだけ恵まれている人でも、どこかに弱点はあります。

そこに同情であったり共感であったり、いろいろなものが発生して引き込まれることになるのでしょう。

ここ最近では主人公が無双する系の作品が多くなっているのですが、あの手の作品は読ませるというよりも作者自身がスッキリするために生み出しているような気がします。

教訓は等価交換よりも「欲を出すな」

鋼の錬金術師というと「等価交換」という言葉がよく取り上げられます。

実際に作中でもよく出てくる言葉ですし、作品の中でキーになっている言葉だとは思います。

ただ、個人的には鋼の錬金術師から教訓を得るとするならば「欲を出すな」ということなのではないかと思うのです。

最終的にエドワードとアルフォンスが倒すお父様と呼ばれる存在は、もともとフラスコの中の小人ホムンクルスでした。

フラスコの中の小人ホムンクルスはフラスコの中でしか生きられない境遇に不満を抱き、そこから抜け出すためにホーエンハイムを利用し、さらなる完全な存在になろうとしたわけです。

「フラスコの中から抜け出したい」「完全な存在になりたい」という欲がすべてのきっかけだったと言っても過言ではありません。

しかしながら、フラスコの中の小人ホムンクルスだけではなく、鋼の錬金術師のキャラクターたちというのは欲を出したことで何かを失っています。

何かを得れば何かを失うという等価交換につながってくるわけですが、何かを得たいというのは紛れもない欲です。

フラスコの中の小人ホムンクルスはより完全な存在になるために、七つの大罪である「傲慢」「色欲」「強欲」「嫉妬」「怠惰」「暴食」「憤怒」を捨てています。

傲慢のプライド、色欲のラスト、強欲のグリード、嫉妬のエンヴィー、怠惰のスロウス、暴食のグラトニー、憤怒のラースと最終的には全員が戦いの末に消えてしまうわけですが、そこは人間が欲に打ち勝つことの暗示なのかなとも思えます。

一方で、これだけのものを自分の中から切り離しているのに「完全な存在になりたい」という欲をお父様は捨てられなかったのです。

最後の最後で泣きながら退場するフラスコの中の小人ホムンクルスを見ると「フラスコから出て自由になりたい」と思うことがそこまでいけないことだったのかと考えさせられますが、「置かれた場所で咲きなさい」という書籍もありますし、もっと感謝が必要だったのかなとも思います。

女性の作者による強い女性像

漫画「鋼の錬金術師」の作者は荒川弘先生なのですが、ご存知のように荒川先生は女性です。

個人的には荒川先生の描く強い女性像がとても好きです。

漫画に関しては男性が描く女性像と女性が描く女性像に違いが出やすいと思っています。

男性の場合、やはり女性に対して自分の理想を反映させることが多い気がします。

一方で、女性の場合、もちろん自分の中での理想の女性像を描くケースもあるとは思うのですが、女性だからこそ女性が持っているずぶとさのようなものを描けるのかなと考えています。

女性は男性が思っているよりもシビアですし、メンタル面では強い部分もあります。

それをわかっている女性が描く女性像だからこそ、嫌味なくかっこいいと思えるのかもしれません。

また、荒川先生の描くキャラクターというのは結構ガタイがいいことでも知られています。

ガタイがいいからこそ強さもより映えるのですが、このあたりは漫画の読者からも指摘されたことがあるようです。

荒川先生の実家が農家であり、荒川先生自身も食料自給率などの問題提起をしていますので、食べるべきものを食べて程よく肉を付けた健康的な体というものにこだわりがあるのかと思います。

最後の最後にホーエンハイムについて

鋼の錬金術師は敵味方関係なく魅力的なキャラクターばかりで本当に選べないのですが、個人的にホーエンハイムが大好きです。

主人公はその息子たちのエドワードとアルフォンスなのですが、基本的に鋼の錬金術師という作品の土台にはホーエンハイムがいます。

ホーエンハイムが血をわけたからこそフラスコの中の小人ホムンクルスが生まれ、エドワードとアルフォンスが生まれ……とホーエンハイムなしでは物語が成り立たないのです。

死ぬこともできず、長く生きるということはつらいことでしょう。

鋼の錬金術師はそんなホーエンハイムがその生涯を終えるための作品だったとも言えます。

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