この映画は、学業成績が低かった女子高生がわずか1年で偏差値を40上昇させ、慶應大学に現役合格するという実話を基にした作品です。
映画化にあたり、そのノンフィクションのストーリーが描かれています。
私は少々批評的な性格で、映画を見る前は次のような印象を抱いていました。
「派手で活気のある女子高生が、気楽に勉強して慶應大学に入っちゃったって、単なる派手好きな映画じゃん。そんなの見る意味ないよ。」
ところが、実際に映画を観てみると、全く予想していなかった感動が待っていました。
恥ずかしながら言いますが、思わず声を出して涙がこぼれてしまうほどの感情が込み上げてきたのです。
この映画は本当に素晴らしい出来でした。
そうした経験から、今回は映画『ビリギャル』を観て抱いた感想や考えを綴りたいと思います。
事故の可能性を信じる
この映画は先述の通り、成績が低かった女子高生がわずか1年で偏差値を40も上げ、慶應大学に合格するというエピソードを描いています。
しかしながら、視聴後の感想は予想とは異なりました。
他人の意見や嘲笑に惑わされず、自身の可能性を信じて挑戦する重要性が示される、非常に感銘を受ける映画であると感じました。
映画の評価を見ると、「慶應大学でもあの分野なら、努力次第で誰でも合格できる」「慶應受験生なら、この程度の努力はみんな当然している」といった意見が見受けられます。
しかしこれらの評価は、実際の本筋から外れていると思います。
なぜなら、この映画が描いているのは、他人や状況の評価に左右されず、自分の目標に向かって努力し、挫折を乗り越える意義を伝えているからです。
他人の評価や特定の分野の合否にこだわることは、本質的な意味を逸脱していると考えます。
この映画は、自分が決意し、努力し、過酷な状況に直面しても、あきらめずに取り組み抜く姿勢こそが重要だと教えてくれています。
他人の意見や嘲笑を超えて、自己の可能性を信じて果敢に挑戦することが、真の意味を持つと思います。
やめるという選択肢
「自分の可能性を信じて」という言葉は、正直なところ、私はずっと自分に適用されるものだとは考えていませんでした。
物語の主人公であるさやかはまだ若く、その可能性に満ちているように見え、正直なところ、うらやましいと感じました。
ところが映画を観ていくうちに、「自分もまだまだ成長できるのかもしれない」と思えるようになりました。
さやかが勉強に取り組む過程で、「将来の展望が見えなくても、自分の限界を知りつつも諦めずに努力することが大切だ」というメッセージが伝わってきました。
努力しても結果が出ないという経験は私にもあります。
その苦しさを理解していますし、たぶん年齢を重ねるごとに、多くの人が同様の経験をすることだと思います。
さやかが「こんな夢先が見えない。身の程知らず」と諦めかけた瞬間、共感が湧きました。
このような状況下で母親がかけた言葉、「つらいなら辞めてもいいのよ。あなたは十分に頑張った」という言葉に触れ、感情が抑えられず涙がこぼれました。
じっくり考えてみると、逆境に立ち向かうことや苦しみに耐えることも、自分が真剣に向き合い、頑張っていた証拠なのだと気付きました。
母親の言葉は、その瞬間の救いとなりました。
同時に、「辞める」という選択肢もあることを示してくれました。
これは人によって「逃げる」行為と解釈されるかもしれませんし、「失敗者」とみなすこともあるでしょうが、私はそうは思いません。
「続ける」か「辞める」かは、ただの選択肢に過ぎないと考えています。
必死に努力を続けることも、選択肢の一つです。
しかし、それ自体が目的ではありません。
目的は別にあって、それに向かって努力をすることが重要です。
私は、人々が「がんばって続けること」自体を目的と勘違いしているように感じることがあります。
働くのは食事を得るためなのに、自分自身をアピールするためにがんばることが目的とされる人々がいることについては、率直に言って納得できない部分があります。
目的に向かって努力することはもちろん大切ですが、「がんばっている感」を演出することがどれほど重要なのか、私には疑問です。
もしそれが個々の生きがいであるならば、それを尊重するべきですが、私自身は少し理解できません。
また、自分と同じ方法やペースで進まない人々を「負けた人」と非難したり、「だめだ」と見下すことは、本質的には意味がありません。
なぜなら、その人々の目的や価値観が異なるからです。
例えば、「がんばりすぎて8回も入院した」という話を自慢することは、本当に価値のあることではないと思います。
むしろ、次は9回目に入院しないように気を付けたいと考えるべきでしょう。
したがって、本来ならば、無理だと分かる状況ならば、その道から身を引くことも優れた選択肢と言えます。
ここで再度強調したいのは、「やめる」ことは必ずしも「逃げる」ことではないということです。
それはただの選択肢であり、選択肢に付けられるラベル次第で、肯定的または否定的な意味が生まれることを指摘したいと思います。
選択肢を「逃げる」とラベル付けすることで、本来ポジティブな選択がネガティブな意味を帯びてしまうことがあるため、慎重に考えるべきです。
「がんばったら無謀」「やめたら逃げる」という考え方に縛られることは、自分の可能性を狭めてしまう可能性があります。
実際には、そのような視点こそが最も妥当ではないでしょうか。
だからこそ、母親が提示してくれた「やめる」という選択肢は、新たな可能性を探求するための、非常に有益な言葉だと思うのです。
他人の意見は関係ない
努力を続けることも、諦めて道を変えることも、結局は単なる選択肢に過ぎません。
それに、「逃げる」という言葉だって、実際はただの選択肢の一つです。
これらの選択肢の先には、さまざまな未来の「可能性」が広がっています。
未来は予測不可能で、だれにも正確にはわからないものです。
そこで自分の捉え方や選択が重要であり、それによって現実は変わっていくのです。
失敗するかもしれないし、成功するかもしれない。
ただ、どちらに転ぶかは誰にも分からない。
だからこそ、自分の考え方によって、自分の現実が変わるのです。
そのためには、今自分にできることに全力を尽くし、自分が選んだ道を誇りを持って進むことが大切です。
失敗しても、まだまだ前には多くの可能性が広がっています。
他人が自分に向ける無関係な意見や、自信のない予測に振り回されることなく、自分自身の選択に自信を持って進んでいくことが重要です。
他人の口車に乗せられることなく、自分の信念を持って進むべきです。
他人の評価や意見に左右されず、自分自身の目指す方向をしっかりと信じて進むことが、可能性を広げる鍵となります。
他人の影響や干渉を受けずに、自分の可能性を最大限に引き出すために、自分の選択を信じて進んでいくことが大切です。
不要なものは排除し、自分を信じて、可能性を広げていくために努力すべきです。
自信を持つこと
これまでの文章を振り返ってみて、自分の感じたことばかり書いていることに気づきました。
しかし、これが私のスタイルだと思っています。
将来も迷いや悩みがあるかもしれませんが、それは問題ありません。
同じくらいワクワクすることや楽しいことも待っているでしょうから。
だからこそ、自分がやりたいことに一生懸命に取り組み、他人の意見に反応するのではなく、逆に鼻で笑ってやろうと考えています。
可能性を絶たず、自分の道を信じて突き進んでいこうと思っています。
将来に向けての不確実性があるからこそ、前向きに自分の選択を貫くことが大切だと思います。
これからも、自分自身がやりたいと感じることに情熱を傾け、どんな意見が飛び交おうとも、自分の信じる道を進んでいくつもりです。
可能性を絶やさず、自分の進む道に自信を持って、未来に向かって歩みを進めていこうと思います。